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楽園へ・その3 [旅の記録]

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 この日も早朝に起床。向かった先は、

 再びレンタカー屋さん。

 ようやく運転に慣れてきたところだけど、シボレー・マリブとはここでお別れ。ハワイ島に滞在する3日間をより有意義なものにしようと、それぞれ違うクルマを借りることにしたのです。

 そして今日のパートナーは…

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 エンブレム。

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 テール。ふっ。

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 マスタングきたよ~

 ハワイのレンタカー代、おそらく日本より高いです。でもこのクラスについてはかなりお得。というより、日本でマスタングを借りられるレンタカー屋なんてほとんどないし、この機会を逃さぬ手はない♪

 要注意なのは必ず乗れるとは限らないことです。当方の場合、クライスラーのもっさりしたオープンカーしかなくて困りきっていたところ、かろうじて砂まみれの一台を使えることになりました。

 本当はマスタングよりカマロを借りたかったんだ。でも残念なことに扱っていないとの返事。エイビスなどにはあったので、車種にこだわるならよくよく調べてから予約した方がいいです。

 そのマスタングの印象。

 「内装がプラスチッキーで質感低すぎ。それに革シートは劣化しやすそう」
 「ソアラほどじゃないけど、重くてスポーツカーらしさは全然ないなあ。パワーも期待していたほどじゃない」
 「日本だと横幅の広さに苦労するかな」
 「高級スポーツカーなのにミラーが手動って…」 

 と、けっこうネガティブな部分が目につきました。一方で良かった点としては、

 「長距離乗っても全然疲れないのは意外」
 「メーター周りのイルミネーションは賑やかでいいね。ガラ悪いけど」

 といったところ。

 メーター周り、夜になるとこんな感じになります。

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 ね、言った通りでしょ(笑

 でもね、欠点は多くとも、乗っていてすごく楽しいです。無味無臭で毒にも薬にもならないようなクルマが氾濫している昨今、こういうアクの強さって貴重じゃないっすか。マーケティング一本槍で、自らリスクをとって市場を生み出そうという気迫がまるで感じられない今の保守的な日本メーカーに作れるのだろうか?何かいつも言ってるなあ。

 いったんホテルで仮眠をとった後、予定通り寝坊して(笑、午後すぎに起床。今日は西海岸を北に辿った前日とは逆に南へ。

 しばらく景色はイマイチですが…

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 1時間ばかり走り、サウスポイントと呼ぶ南端の岬近くを過ぎ、東へ進路を転じたあたりで風景が一変。南国とは思えない、アイルランドのアラン諸島を思い出させる殺伐とした風景が広がります。

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 路肩に駐車して、

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 パシャリ。

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 逆方向も。南国的な景色だけでなく、こういうちょっと寂しいのも大好きです。

 自分をここに導いてくれた何事かに感謝せざるをえません。 

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 さらに進みます。20キロぐらいでしょうか。標識に従って道を海側に折れると、こんな砂浜に辿り着きます。

 プナルウ黒砂海岸という名のこの砂浜、砕けた溶岩でできている以外、特に珍しくないかと思えば…

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 いました!ウミガメが甲羅干しにやってくることで有名なのです。

 この日はもう一人いました。気持ちよさげに瞑想していて、こちらには見向きもせず。

 折しも、「カメブーム」が我が家を席巻中だったので、見られただけで大感激。あ、けしてヒッキー熱がさめたわけじゃないです(笑

 ちなみに触るのはもちろん、4メートル以内に近づいてもダメ。ウミガメはオアフ島でもノースショアあたりで見られますし、ハワイ島でもここ以上に遭遇率の高いビーチがあるようなので調べてみてください。

 ずっと見ていたかったのですが、時間がないのでここも早めに切り上げて先を急ぎます。

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 ハワイ島の天気は予測するのが世界で最も難しいと言われるほど、場所や時間によって違います。幸いこのあたりでは雲がなくなり絶好の天気に。

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 白い煙、分かるかな?

 今日の目的地はボルケーノ。そう、キラウエア火山です。

 コナから2時間あまり。150キロぐらいでしょうか。ようやくハレマウマウ火口に到着。

 この噴火口、クレーター・リム・ドライブという名の道が周りを取り囲んでいて、本来なら一周できます。ただ、当方が訪れた時点ではどうも行き止まりになっているようでした。

 反時計回りで進み、行き止まりの手前にある「トーマス・ジャガー博物館」という施設のそばにある展望台へ。さて。

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 こいつぁすげえや!となぜか目明し調に(笑。キラウエアの火山活動はひところより落ち着いてしているとはいえ、今でもかなり活動的なのがこの風景からも分かります。

 陽が沈み、暗くなると赤い色が浮き立ち始め、迫力も断然、違ってきます。訪れるなら夕方がベストでしょう。

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 当然、ここでもパノラマ出動。↑↑をクリックしてみてください。

 ここの標高は1200メートル以上。風が強い上に遮蔽物が一切なく、しかも日没前後ということで強烈な寒さでした。日本から持ち込んだフリースやネックウォーマーとともに、アラモアナで買ったトレーナーが大活躍してくれました。

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 本当はクレーター・リム・ドライブから延びているチェーン・オブ・クレーターズ・ロードを通って海岸まで出て、煮えたぎった溶岩が海に流れ込む様子も見学したかった。

 それにキラウエア周辺にはより活発に活動しているプウ・オオ火口など、車では近づきにくいポイントもあります。できればヘリをチャーターしたいところ。残念ながら全部の見学は都合で断念。都合というのは寝坊のことです。。。あ~自分のバカ。

 キラウエアを見てよほど興奮したのか、よせばいいのにヒロ経由で帰ることに。ところがあれほど天気が良かったのに、やがてぽつぽつと雨が降り出し、ヒロを過ぎたあたりでバケツをひっくり返したような土砂降りに。しかもそれが数時間、間断なく続き、ゲリラ豪雨という言葉すら大したことなく聞こえるレベル。真っ暗なのに、フロントガラスやサイドミラーが汚れていて視界はほぼゼロ。さらに前後を地元の車に挟まれなかなかエスケープできないわで、まったく生きた心地がしませんでしたよ。

 でも帰り着いたホテルの部屋の方がもっと怖かったりして(笑 


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楽園へ・その2 [旅の記録]

 翌日は早めに起きてホノルル空港へ。ハワイ島へ向かいます。

 オアフ島とハワイ島のヒロ、もしくはコナを結ぶ路線は、ハワイアン航空のほか、LCCのゴー・モクレレ航空も運航しています。ここは無難にハワイアン航空を選択。値段は時間によります(昼ほど高め)。今回は往復1万2000円程度でした。

 以前は日本航空がハワイ島行きの直行便を運航していましたが、2年前になくなってしまいました。

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 滞在場所は迷った挙句、コナに決定。ヒロはハワイ島で最も大きな町で、観光地へのアクセスでコナより勝る半面、リゾートらしさではコナに軍配が上がります。あとヒロはやたらと雨が降ります。逆に観光地化されていない方がいいならヒロを選ぶべし。

 ハワイアン航空のチケットはネットで予約でき、座席指定も可能です(日本語にも対応)。行きは左の窓側、帰りはその逆を選択しましょう。位置は主翼が邪魔にならない15列目ぐらいまで。

 なぜかというと、オアフ、モロカイ、ラナイ、マウイ…と、島々をかすめるようにして飛ぶ絶景路線だからです。

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 離陸すると、まずはホノルルの街並みが眼下に広がります。

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 いったんワイキキに近づき…

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 やがてダイアモンドヘッドが目の前に。これだけでもすごい眺め!

 ダイアモンドヘッド、最近まで噴火口だと知らなかったりして。今回ヘリで上空から眺めようとして、時間の都合で泣く泣く断念したのですが、飛行機からの景色だけでも十分堪能できました。

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 コナへのフライトは40分あまり。あっという間にハワイ島が見えてきました。まさに手つかずの自然という言葉がぴったり。全体的に黒っぽく、大地が溶岩で埋め尽くされているのが分かります。こりゃ圧巻だわ。

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 空港はこじんまりとしていていかにも南国風。出てすぐのところに待ち構えていたレンタカーの無料送迎バスに乗り込みます。ハワイ島は大きい上、公共交通機関がなきに等しいので効率よく観光するならレンタカーは必須です。

 利用したのはアラモ。安さでダラーを選ぶ方が多いようですが、ちょうど全日空のボーナスマイルが3倍になるキャンペーンを実施中だったのでこちらを選択しました。値段もそう変わらなかったような気がします。

 日本で予約していったこともあり、手続きは至極簡単。当方の粉々に砕けた英語でも楽勝でした。

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 借りる際には停めてある同じクラスの車から任意に選ぶ仕組み。が、どれも似たり寄ったりで気に入った車種は見当たらず。半分しようがなく選んだのがこのシボレーマリブでした。もともとコンパクトカータイプを予約していったところ、空きがなく無料でアップグレードしてくれたとのこと。 

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 でも、本当いうとこのシボレーアヴェオに乗りたかった。どこかで見たようなヘッドライト周りですが、全体的にバランスよくまとまっていてちょっと気になっていたんです。

 チェックインまで間があるので、ホテルのあるカイルア・コナの町とは逆方向の北へ車を走らせます。

 ハワイ島は岐阜県とほぼ同じ大きさ。ビッグアイランドと呼ばれているだけあってかなり大きいです。といっても人口は100万人近いオアフに対し、15万人ぐらいしかいません。従って道路も島の周囲を幹線道路が一周しているくらいでいたってシンプル。ナビなしでもそんなに不便は感じませんでした。左ハンドルや左折優先といった日本との違いをあらかじめ頭に叩き込んでおけば大丈夫でしょう。

 制限速度は最高で55マイル(90キロ弱)。道幅が広く感覚が狂いがちなので飛ばしすぎないよう気をつけます。

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 空港のあたりはコナを除けば海岸沿いにリゾートが点在している以外何もなく、ひたすら南北に一本道が続きます。オーシャンブルーの青々とした海が美しい。そしてやっぱり風が気持ちいい。

 シボレーマリブの乗り味はいまいちで、ずんぐりむっくりしているせいか視界もよくないです。それとも今の車ってこれが普通なのかな?パワーは十分でした。

 うれしかったのはカーオーディオの前面にAUXのジャックを備えていたこと(年式によるかもしれません)。iPodとケーブルを持参してきたので、好きな音楽を聴きながらのドライブは最高でした。

  サラ・ヴォーン「ラヴァーズ・コンツェルト」
  ナナ・ムスクーリ「愛の歓び」
  ベリンダ・カーライル「リーヴ・ア・ライト・オン」 

 この景色には女性ヴォーカルの曲がふさわしいようです。「ラヴァーズ…」は子供のころ父がよくステレオで聞いていた曲。数年前にドラマの挿入歌として採用されたみたいですね。

  忘れてました。地元のFMを聴いていたら美しいファルセットが。おそらくハワイの歌姫として有名なレナ・マチャドでしょう。ハワイ音楽を楽しむなら、彼女と「IZ」ことイズラエル・カマカヴィヴォレは外せません。

 1時間あまり走っていると、なぜか道を間違えたようで行き止まりに。そこで休憩がてら海辺を散策。

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 ここでもパノラマ撮影してみました。↑↑の画像をクリックしてみてください。わずかな地元の家族連れ以外に誰もいない、名も知れぬ浜辺。なのにこの景色って!

 とにかく静かで波と風の音しかしません。

 すがすがしい気分で再び車を操り、30分ほどで目的地のポロル渓谷に到着。

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 今度は切り立った崖が壮観。波の力ってすごいねえ。

 ところが、せっかく感動していたところで見事に興をそいでくれたのが、近くにいた日本人カップルのヒソヒソ話。どうやら「あの人一人で来たんだね~」などとやり取りしている様子。ヒソヒソ話や陰口って、日本人の最も悪い癖だと思います。別にいいじゃん、一人で来たって。

 前にも書いたけど、そんなにハワイの一人旅って珍しいのかな?

 そう思いながら来た道を戻り、予約しておいた「コナ・コースト・リゾート」に到着してみると、フロントのお姉さんも「えっ、一人?」と少し驚いた様子。やっぱり珍しいみたいです。。。

 だからといってヒソヒソ話が許されるわけじゃないぞコノヤロー 

 このリゾート、2階建てのコンドミニアム形式になっています。まずは30畳ぐらいの居間があって…

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 キッチンはオーブンや調理器具、冷蔵庫など何でもアリ。

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 2階のベッドルーム。

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 ベッドルームその2。

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 ベッドルームその3。

 

 あの~、

 

 一人しかいないんですけど

 宿代は1万円しなかったはずだよねえ。

 

  ていうか、

 

 寂しすぎるやんけ。 

 

  ていうか、

 

 怖いやんけ。

 

 フロントのお姉さんは一人と聞いて驚くだけでなく、当惑してもいたのです。ただでさえ広いのに、少人数に適した部屋が埋まっていたらしく、結局は逆に大人数向けの部屋をあてがわれたのでした。

 ともあれ、これから帰国まで3日間はここに滞在。おばけでないかな?


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楽園へ・その1 [旅の記録]

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 ここ数年は出張を除けば飛行場にマイカー以外で行ったことがほとんどありません。身体的負担が少ないのもあるけど、業者に預かってもらえばけっこう安くつくし、仕事が忙しく相対的に時間の価値が高まったのも一因です。でも今回は行きが羽田なのに対し、帰りは成田しかなかったので久々にリムジンバスを利用。便利な羽田から向かえるだけでもありがたく、この程度は我慢です。

 「ダンナ、くれぐれも勘違いしちゃいけねえ。あっしは2人で行くときのための偵察で行くんでサ」 

 身を粉にして働いてきたのでさすがに休ませてやりたいと思ったのか、山の神はいたって寛容だったのに、なぜか目明し口調?で言い訳めいたことを口にして墓穴を掘る人がいました(笑

 出発が夜中ということで、国際線ターミナルはさぞかし閑散としているかと思えば予想外の混雑ぶり。台湾行きの際には気がつきませんでしたが、かなり国際色豊かです。ここを拠点に便を増やしているエアアジアの存在が大きいのでしょうか。出発まで間があったのに、行き交う人々の様子を見ているだけでおもしろく、自分の中でお決まりとなっている「空港カレー」を食べられませんでした。やべ~、無性にカレーが食いたくなってきたよ。

 余談ですが、当方はJCBのANAワイドカードを使っています。このカード、チェックイン時に列に並ばなくてもいいのでかなり楽。でも良い点はそのぐらい。LCCの台頭でマイレージ制度の魅力が薄れる中、あえて持つ必要はないかなあなんて思っていたりします。8000円も年会費を払っているのだから、ラウンジぐらいタダで使わせてほしい。

 すしずめの機内なので機内食はすし(え、ではなくて穴子丼。放浪時代は見向きもせず、今もマイルの存在がなければまず使わないであろう日系エアラインですが、機内食やサービスは確かにグレート。カレーを食べられなかった恨みであっという間に平らげてしまいました。

 ちなみに、貧乏旅行が染みついているというより、食にほとんど興味がないため、せっかく旅行に行っても機内食が一番まともだったりして。。。

 行きは7時間ぐらい。帰りより1時間くらい短いとはいえ、今回はエコノミーということもあって体力的にギリギリでした。消耗してるなあ。しかもこごえそうなくらい寒い。こんなんで最後までもつのかな。

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 何とか耐え切ると有名な景色が見えてみました。ホノルル空港には現地時間で前日の12時50分に到着。これから4日間の楽しい滞在が待ち構えています。

 ハワイについては歴史を除いて極力、知識を蓄えないようにしてきました。到着したこの段階でもごく大雑把な知識しか持ち合わせておりません。

 でもって第一印象はというと…空港が古臭い。。。出口も端っこでさして賑わってないし。

 だいだい、「アロハ・オエ」とか「カイマナ・ヒラ」とか「ブルー・ハワイ」がかかってないぢゃないか!あと「やんなっちゃった節」もってそれは無茶か。

 子供のころ、地元宮崎のフェニックス自然動物園にある「流れるプール」へ行くのが楽しみで、そこでは決まってこうしたハワイ音楽がBGMで流されていました。今にして思えば、それがハワイに対する憧憬の原点かもしれません。結局、今回はちょっとフラを目にしただけでした。

 そういえば山の神は到着するとレイを首にかけてくれるって言ってたけど、ガセ?帰国して調べてみると、レイのサービスはツアー客用とのこと。空港のサービスじゃないんですね。一人ぶら下げていても違和感アリアリなだけですけど。

 そうそう、一人といえばハワイにしたことを知った同僚の反応が面白かった。みな一様に「???」という感じだったのです。

 そこにはいくつかの意味が込められていて、ひとつは「肌が弱いのに常夏の島で泳いでいいの?行くだけでも苦労しそうなのに」という心配。さらに「何カ国も放浪してきたのに何で今さら超メジャーなハワイなの?」という素朴な疑問。そして最後が、「しかも一人って…寂しぐね?」(気をつかっているのか、はたまた鼻で笑っているのか。なぜか口調がなまっていたりして)

 ハワイってそんなに一人じゃ行かないもんなのかね?それに今回はビーチが目的じゃないんですよ。従って水着は持参せず。ダイビングもしません。

 疲れを考慮して、ワイキキのホテルまではタクシーを利用。30ドルぐらいだったかな?けっこうしますね。シャトルバスもあるにはあるのですが、何にも調べてこなかったのでどこで乗ればいいのか良く分からず、面倒でもあったので使いませんでした。「ザ・バス」と呼ばれるローカルバスは荷物が大きいと乗車を拒否られるみたい。

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 この日に宿泊する「ワイキキゲートウェイホテル」。HDRで誤魔化していますが古めです。
      
 チェックイン時間にはまだ早いとのことで、荷物を預けてひとまずショッピングへ向かいます。ハワイのホテルはチェックインの融通が利かないと聞いていましたが、混み合っていることもあるのか、やはり難しいようです。
            

 このホテル、エクスペディアでまだ空いていた中で一番安かったホテル。これ以下のレベルとなるとユースホテルぐらいしかなさそうでした。もともと寝られさえすればOKなタイプなので、もっとリーズナブルなところがよかった。

 ただ、目の前がバス停なのはポイント高いです。さっそくやってきた名物のトロリーに乗り込みます。

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 ピンクトロリーはJCBカードを見せればタダ。運賃以上に小銭を出す面倒が省けてうれしい。
                 
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 風が気持ちいい。太陽がまぶしい。ロンドンバスを含め、こういう類の乗り物を小馬鹿にしてきた私が馬鹿でした。
    
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 約10分後に到着したのは有名なアラモアナショッピングセンター。 

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 ハワイ観光の定番ですが、今や日本にもこういう施設は無数にあってありがたみは薄れがち。オアフにはプレミアム・アウトレットなどもありますし。でも円高で日本よりは安そう。何より旅気分が物欲をかき立てます。といいながら買ったのはハワイにふさわしからぬ厚手のトレーナーのみ。とはいえこのトレーナー、狙い通り後に大活躍してくれます。

 買い物らしい買い物をしなかったアラモアナですが、街で買い物する機会がめっきり減っていただけに、雰囲気だけでも大いに楽しめました。何よりココイチのカレーが食えて大満足です(笑

 帰りもピンクトロリーを利用。行列ができるほどの混雑でしたが、ラッキーなことに行きと同様、後ろの右端に陣取ることができました。小さなお子さんがいらっしゃる方は屋根のないここには座れないのでご注意。

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 ピンクトロリーはワイキキビーチのそばも通る便利な循環路線。せっかくなのでホテルに直帰せず、いったんビーチのそばで降りることに。

 「おお~これが音にきくワイキキの浜け~」

 ビーチ自体はずば抜けて美しいわけじゃなく、しかも実はほぼ人工ビーチだったりするそうですが、浜辺でリラックスする人びとを含め、やはり絵になります。ビーチに沿いの通りに立ち並ぶブランドショップが華やかな雰囲気を醸し出しています。何も買いませんけど(笑

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 せっかくなので台湾以来のパノラマモード出動。今回はスクロールできるようにしてみました。↑↑の画像をクリックしてみてください。

 こんな絵がボタンひとつで撮れて、スクロール表示させられる時代になるとは。

 いや~、 額縁に入れて飾っておきたいとはまさにこのことですな。

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 沈む夕陽にまったり。海っていいねえ~。ホノルルは実質この日だけなのが残念。名残惜しみつつホテルに戻ります。

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 宿泊先のゲートウェイホテル、8000円程度だけに設備もそれなり。インターネットはトラブルで使えず(しかも聞いていたのと違い有料)、それ以上にシャワーのお湯が出ないことにはがっくり。フロントに電話してきてもらった太った黒人のお兄さんがノブの微妙な操作でお湯を出したときは思わず拍手してしまいましたけど。フロントは親切でした。

 ハワイがホテルの開業ラッシュを迎えたのは日本人旅行者が急増した80年代で、どうやら「熱海化」が進んでいるようです。空港の古さも同じ理由なのでしょう。アメリカの街ってけしてきれいじゃないですしね。予算を使いすぎている日本よりはましでしょう。

 部屋は日本から考えれば十分な広さでまずまず清潔。ベッドが3つあっても使いきれないけど。。。

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 今回はウズベキスタン旅行の際に買ったドイターのバックパックをお伴に選びました。スーツケースは社交ダンスの大会に使う山の神に持ち去られてしまいました。重宝したとはいえ、浮いていたのは否めません。。。

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 11階の部屋から。海側でなくてもなかなかの景色でした。エクスペディアの口コミにあった、ほぼ夜通し続く工事の音もさして気になりませんでした、といいたいところだけど、やっぱりうるさくて眠れなかった。必然的に翌朝のフライトはギリギリで飛び乗ることに…いやはや、あぶないところでした。


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楽園へ・プロローグ [旅の記録]

 夏本番ですな(え

 ようやく待ちに待った夏休みがとれましたよ。。。

 今年は早くから9月まで休めないことが確定し、覚悟はしていたとはいえ、待ち遠しいったらありゃしない。

 わが社も世間の風潮に追いつこうと努力し始めたのか、海外に行く場合は土日を合わせて9日間、ぶち抜きで休んでよいとのありがたきお言葉。そこで計画だけは早いうちから練っておくことに。さァ、海外逃亡するぞ~

 ひとまずいつ不測の事態が起き、休みがつぶれるとも限らないので、たまった全日空のマイルを使って9月最終週の枠が空いていた成田→マニラ、マニラ→ジャカルタ、ジャカルタ→成田の各便を押さえておくことに。合計43000マイル。いざ行けなくなっても3000マイルを支払えばキャンセルできます。

 ただ興味は大いにあるのですが、いかんせん疲労困憊しているのでどうにも気が乗らない。

 そこで浮上したのが、海外はやめにして、9月初旬に北海道へ行く案でした。もともと北海道は興味がないどころか、「切り札」にとっておいた土地だし、アジアなら行かないと言っていた山の神も乗り気。なかなか折り合わない2人のスケジュールも9月初旬ならどうにかなりそうです。

 でもマイルで行って現地でレンタカーを借りれば安く済むのですが、できれば北海道はソアラで旅したい。ところがソアラだと高速代やフェリー代がバカにならん。時間的にも1周して帰ってくるにはやや足りない。高速1000円、復活してくれないかな。

 そうこうしているうちに、直前になって9月初旬に休めないことがあっさり決定。一人で行かざるを得なくなってしまいました。

 えっ、落ち込んでいるようには見えない?いやいや、誤解ですってば(マヂデ

 一人で行っても二人で行っても何人で行っても楽しい。それが旅です。いや、ほんとに。

 さて、北海道をソアラで一人はもったいないのでボツ。インドネシアとフィリピンも前述の理由で避けたい。

 欲を言えば、未訪問の土地で心身をリフレッシュできる場所がいい。でも欧州や米国本土はあらかた訪れてしまっている上、マイレージ枠の空きはほぼ皆無。マイルが使えて手軽に行ける初の国といえばカンボジアもあるけど、ハードさはインドネシアやフィリピンと変わらない。近場なのでまだとっておきたいし。う~ん。

 ここでふとあることに気がつきました。「何もマイルにこだわる必要ないのでは?」

 例のLCCとやらです。

 ざっと調べてみると、エアアジアとジェットスターなら希望の便がありそうです。特にジェットスターのゴールドコースト便は片道23000円~とかなりお得。エアアジアもフィリピン便は片道何と9800円~!で、しかも羽田発。これなら東南アジアはわざわざ国内線でも使えるマイルに固執せずともLCCで行った方がいいわ。

 おまけにエアアジアはサーチャージが料金に含まれ、ジェットスターも全日空よりはかなり安い。サーチャージなんてどこもシンガポールケロシンが基準なはずなのに、どうしてこうも差がつくのか。ともかく、9月初旬になってようやく豪州行きが決定しました。

 と言いたいところですが、ここで3つのカベが。

 ひとつはキャンセル料。ジェットスターはいったん予約してしまうとキャンセルがききません。こいつはいつ休めなくなるとも限らない当方にとってはかなり怖い。それに航空運賃は確かに安いけれども、豪州は土地代が跳ね上がっているためか、ホテル代がやたらに高く、マイルを使わないことを考え合わせるとけして負担は小さくない。

 そして豪州には山の神も行ったことがありません。つまり2人して初の感動を共有できる貴重な国なのです。ま、結局は当方の優柔不断さが一番大きなカベなんですが。「やっぱいっそのこと行くの自体やめるか~」。なかば投げやりになりつつふと全日空のHPをあらためて見ていると、

 「あっ、一席だけ空いてる~!」(*悲鳴状態です)

 まだ行ったことがなくて骨休めにうってつけの土地。それどころか北海道とともにとっておいた楽園に、まさかマイルで行けるとは。直前になってキャンセルする人がいるんですね。盲点でしたよ。

 うん、ここしかない!

 そうだ、ハワイへ行こう!


タグ:ハワイ
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心理学的アプローチを試みた [車]

 もう5月下旬ですか。いやはや、いつもながら本当に早い。

 4月あたまに勤務場所が変わって以来、ほぼ息継ぎなしで働いてきました。黄金週間までもてばまとまった休みの効果で多少は疲労が抜けるかと思いきや、貴重な4連休は飛び石で出勤。それ自体は珍しくとも何ともないのですが、あいにく慢性疲労が甚だしくなっていたタイミングだったので、いつも以上に難渋しました。

 労働基準監督署なんて存在しないも同然で、週40時間勤務なんて夢のまた夢。そもそも定時という概念自体なきに等しく、残業しているという自覚もなし。仕事が片付いたから早めに帰るなんてまずありえない。

 そんなシビアな世界なのに、アトピー性皮膚炎と慢性疲労症候群という、厄介きわまりない病気を抱えつつ働くのは自殺行為かもしれません。

 なのにこうしてしがみついているところをみると、少しはプライドというか、意地があるのかな。もともとけっこう負けず嫌いな性格なので、病気になったことでなおさらのこと自らを叱咤し、半ばヤケになりながら立ち向かってきたように思います。

 それと自分が率先して頑張ることで、同じ病気で苦しむ方を少しでも力づけたいとの思いもあります。ハードな点を除けば楽しいし。もしかしたら心理学で言うセリグマンの学習性無力感みたいなもので、単に受け身的に厳しい状況を受け入れてしまっているだけなのかもしれませんが。。。

 もちろん、きついなら無理せず休むべきだし、生活に困らないなら働かなくていい。こういう生き方、間違っても人にはすすめません。

 ただ、こういう命をすり減らすような生き方をしていると、蓄積したダメージの大きさと反比例して、些細なことに大きな喜びを感じられるという、意外な効用もあるんですよね。ようやくたどり着いた週末にたまたま体調が良く、ソアラで出かけでもするとものすごくうれしいんだな、これが。

 この喜びだけで遮二無二働いてきて良かったと心から思い、俄然やる気が沸いてきます。単に一種の逃避という適応機制なのかもしれませんが、それでもいいです。

 あるいはこれって、中年の危機が関連した行動なのか。。。

 さて、先週の土曜日は珍しく体調が良かったので、そんな喜びに浸るためプチ遠出をしてきました。本当は良いといえるほどではなく、出費を抑えたい山の神に「やめときなよ~」と制止された途端、ブーメラン効果で家を飛び出したりして(笑

 お目当ては毎年恒例のノスタルジックカーショー。旧車イベントは久しぶりなのでいつも以上にテンションが上がります。

 今回の会場は東京ビッグサイトではなく、同じお台場にある青海の特設会場。正月のニューイヤーミーティングと同じ場所ですね。屋外の方が太陽光の下で見られる点ではいいのかもしれません。この時期なら多少暑いくらいで過ごしやすいし。

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 ただし、最寄りの駐車場は×。駐車場代が何時間停めても1日1500円。関係者でもない限り停めるのはせいぜい3時間でしょう。入場料といっしょって、いくらなんでも高すぎる。ぜひ改善してもらいたい。
 
 会場に入り、目玉の一つであるバットモービルをしばし眺めた後、左手にあったキャステルさんのブースへ。ちなみに日曜日はウルトラ警備隊の「ポインター号」が展示されていたようです。

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 ミウラが2台にディノにフェラーリ365GT…あいかわらず豪華だわ。この黄色いストラトス、いつぞやご紹介したドンガラとは別物みたい。

 スーパーカーブームのころは格下の印象があったこの車も、今だと3000万円ぐらいするとか。希少性と個性的なデザインがカーマニアの心をくすぐるんですかねえ。

 そういえば一昨年ぐらいだったか、ストラトスが復活するというニュースがありました。現代風にアレンジされていて、質感が高いとはいい難いデザインの欠点をうまく修正している印象を受けました。残念ながらフェラーリ430がベースで、1億円という、とうてい庶民が買えない値段でしたけど。そういえばアタカエンジニアリングのレプリカ、まだ売ってるのかな?こちらは本物に忠実に作られていて、値段も700万円ぐらいと比較的手ごろだった記憶が。

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 旧車イベントなのに現代のスーパーカーが多かったのはなぜ?スウェーデンのケーニッグゼグ・CCRで良かったっけ?初めて生で見ました。確か4000万円ぐらいの車だったと思います。

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 ライトの形や塗装の質など個人的にイマイチな部分もありますが、横からの眺めはずんぐりむっくりながら、なかなかバランスのとれたいい形をしています。

 それにしても我ながらデザインにこだわるというか、それ以外にはさして興味がなかったりして。内なるリビドーが転換してデザインに目を向けさせているのでしょうか?確かに性的欲求、めっきりなくなったし(笑

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 ランボ軍団。現代のスーパーカーにはあんまり興味がないので、いまだにムルシェとガヤルドの区別がつかなかったり…

 ただ、往年の輝きをあとかたもなく失った(と個人的に思っている)フェラーリに比べると、ランボの方がデザインレベルははるかに上。ビビッドでカラフルな色もこのモダンなデザインならマッチしますね。

 それにしても、どれもこれも派手な色か、ステッカー貼りまくり。そうするのが流行りなんでしょうか?かえって元の良さが失われてしまう気が…

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 当ブログの初顔、フィアットX1/9。角張ったデザインなら初代MR2の方が好みですが、コンパクトスポーツ大好き人間としては見逃せるはずがなく、モノマニーな自分が出現したりします。

 そういえばマツダとフィアットが提携し、マツダがロードスターを供給するなんて話が出ています。もしかするとこの車を復活させるのかな。X1/9は量産型ミッドシップスポーツの元祖的存在で、FRになるとキャラクターが変わってしまうのでそれはないか、と思っていたら、どうやらアルファロメオブランドでの発売のようですね。いずれにせよ、本家のデザインに食指が動かない自分としては期待大です。

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 今回は日本車が少なかったのがちょっと残念。その中にあって外車に負けじと光輝いていたのがこのセリカXX。同世代の方なら「よろしくメカドック」を思い浮かべるはず。

 80年代前半の車って、それ以前の車以上に見かけない印象があります。旧車というには新しく、貴重な感じがしない上に、防サビが不完全なので、かえって消えてしまっているのかな?この車もめっきり見なくなりました。

 スーパーカーブームとともに当方を車の虜にさせたのが「よろしくメカドック」だった関係で、この時期の車には特に思い入れがあります。初代ソアラ、R30スカイライン、S130フェアレディZ、S110シルビア/ガゼール、どれも大好き。XXは内外装がスポーツカーらしくない点が残念とはいえ、もちろんキライじゃない。

 シートに汚れはほとんどなく、ボディーもオールペンした気配こそあるものの、目立ったキズはなし。走行は10万8799㌔で、車体価格は110万円ぐらいだったでしょうか。売約済みとのことですが、買った人はかなりいい買物をしたんじゃないでしょうか。

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 日本車をもう一台。84年式の7代目コロナです。XX以上に状態良さそうでした。走行8万5000㌔で75万円。時期が重なるだけに、初代のレパードやソアラとどことなくテイストが似てますね。

 
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 ポルシェ550のキットカー、ベック550。キライではないけど同じポルシェのレプリカなら356スピードスターの方がいいかな。

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 人間は歳を食うと何かと保守的になるはずなのに、自分の場合は例外のようで…年々過激というか、とんがった車への憧れが強まっている気がします。

 その代表がコブラ。いいなあ…。ワイルドで、スポーティーで、エロティックとくれば欲しくないわけがない!

 でも今回の最優秀賞は隣の車だったりして…

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 それがこのシェルビー・デイトナ。1960年代に6台だけ生産されたシェルビーのレーシングカーです。本物は5000万円以上するといわれているので完全に視界外ですが、レプリカが幾種類かあって、600万~700万円ぐらいあれば何とか手に入るみたい。ただし内装はスパルタンそのもの。個人的には内装がきちんとした1000万円ぐらいのやつが欲しいです。この個体は1000万円バージョンみたいでした。

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 リアの緩やかな傾斜と、バッサリ切られた尻切れのいわゆるコーダトロンカが最高!フェラーリの250GTOより好きかも。大きさはもうワンサイズ小さくしてほしい。

 キットカーやレプリカってちゃちすぎて買えない印象がありましたが、こうしてじっくり見てみるとかなりいいですね。ラベリングはいけませんね。これ以外にフォードGT40のやつもいい。あとはもうちょっと値段がこなれてくれれば…

 でも高くて買えないからってあきらめてはいけません。ひたすら「お前なら手に入れられる!」と心の中で念じましょう。そうすればピグマリオン効果で買えるかもしれません。買えなくとも、空に向かって「ほしいぃぃぃぃ!」と叫ぶだけでカタルシスが得られ、精神衛生的にプラスです。

 いや~、いつも以上の満腹感。さて、心理学の勉強し直すとすっか~
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可愛いやね! [お気に入り]

 すっかり忘れていた甘酸っぱい感覚。何年ぶり、いや何十年ぶりでしょうか。

 胸がドキドキして、息をすることすらままなりません。

 もうすぐ四十路だというのに、どうやら年甲斐もなく恋の病にかかってしまったようです。

 頭がボーっとして、微熱がおさまらなくて、涙が止まらなくて、鼻水がひどくて…

 花粉症だわ(笑

 でもね。

 恋煩いとはいかないまでも、ある女性に夢中なんです。念のため言っておくと山の神じゃありませんよ(笑

 すっかり衰えた外見とは裏腹に、ダフニスを彷彿とさせる純情で清らかな心の持ち主であるワタクシは、四月のオフィス変更を前にあれこれ準備があるにもかかわらず、まったく仕事が手につかんのであります。

 「心濁りきっとるやん!」とか、「仕事が手に付かないのはいつもじゃん!」という同僚および知人・友人のクレームは一切、お受け致しかねますm(__)m

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 話を進めましょう。最近我が家に届いたラブレターです。山の神に三行半を突きつけられたわけじゃありませんのであしからず。

 いやぁ、たった数日の辛抱なのに何年も待たされている気分でしたよ。まさしく彦星の心境ですわ(え

 さっそく封を切ります。

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 ラブレターじゃなくてマルベル堂のブロマイドでした(*^_^*)

 それにしても。

 (-ω-。`)ホ゜ッ

 …失礼。

 この女性こそ、いま恋焦がれている人なのです。

 誰だか分かるかな?ふっ、わっからねえだろうな〜

 もし分かるとしたらあなたはかなりのオッサン…いや、かなり女性を見る目があり、この女性の存在をずっと心にとどめてきたのでしょう。当方の言葉だと説得力ゼロかもしれませんが。

 そうねえ、ヒントは「バレーボール」

 分からない?ちょっと広すぎたか。

 じゃあ、「サインはV」。これでお分かりでしょう。

 そう、岡田可愛さんです。と言っても私より若い人は知らないか。むかし活躍した女優さんで、今はアパレルブランドを運営されている方です。

  岡田さんのことは子供の頃から知ってはいました。でも物心がついた頃には女優業を半ば引退されていて、たまにバラエティー番組で見かけるくらい。失礼ながら、「ちょっとケバいおばさん」くらいにしか思っていませんでした。それ以前の映像も「サインはV」の場面を見かけるくらいで、主役を務めた岡田さんにフォーカスを絞ったものではなく、ドラマのスポ根ぶりや奇抜さを懐かしむ場合がほとんど。虜になるほどではありませんでした。それがなぜ今になって夢中なのかというと、たまたまYOUTUBEで他の作品を見る機会に恵まれたのです。

 「サインはV」を除く代表作だと、夏木陽介さんらと共演した「青春シリーズ」や、NHKで放送されて好評を博し、岡田さんは先生役を演じた「謎の転校生」あたり。吉永小百合さん主演の映画「キューポラのある街」にも出演されているようです。

 当方のイチ押しは、1971年に日本テレビ系列で放送されたホームコメディーの「おひかえあそばせ」。プロ野球が中止になった時に放送される、いわゆる「雨傘番組」だったため、全13回と話の数は少なめで、さして話題になった作品でもありません。私もずっとこのドラマの存在を知らず、もともとは石立鉄男さんが大好きで、過去の作品を洗いざらいチェックしていたことから知りました。

 石立ドラマといえば、岡崎友紀さんと共演し、ラブコメの草分けともいえる「おくさまは18歳」(70年)や、酒井和歌子さんがヒロイン役の「気まぐれ天使」(76年)あたりを思い浮かべる方が多いのでは。「おひかえあそばせ」の焼き直しで、岡田さんに代わって大原麗子さんが相手役を務めた「雑居時代」も有名ですね。いずれも30年以上前に制作されたとは思えないほどの傑作ぞろいで、相手役も魅力的な方ばかりです。

 その中でも、私は「おひかえあそばせ」を選びます。このドラマ、松木ひろしさんの脚本もさることながら、岡田さんを含め、石立さんや宮本信子さん、冨士真奈美さんといった出演者の演技がことごとく素晴らしい!はっきり言ってリメイク版の「雑居時代」よりホームコメディーとしての質は上だと思います。

 六人姉妹の四女でヒロイン役を務める岡田さんのかわいいこと!ツンデレの気があり、勝ち気な一方で、心優しく、石立さん演じる若手カメラマンと喧嘩しながらも惹かれていくという、難しい役所を見事に演じきっています。岡田さんは当時23歳。10代の清純な岡田さんも可憐で素敵ですが、このドラマの岡田さんはそれをしのぐほどチャーミング。

 ついでにいえば、見た目だけでなく、その声も声フェチの当方にはツボです。発声がしっかりしていて、聞き取りやすくて、純粋に役者としていい声してると思います。

 岡田さんは自伝的なエッセイを書かれていますが、残念ながら撮影期間が短いこともあったのか、この作品に言及していないのが残念。

 演技の素晴らしさは当方の分かりにくい説明より、自身でご覧になった方が方がいいかと。容量制限があるのでURLを貼っておきます(http://youtu.be/c8DB8tEoN3I)。この動画が演技のうまさを何より証明してくれています。

 どうです?特に最後のシーン。うっふ~ん♪ 家族のいる方はにんまりしたところを見つからないよう注意しましょう(笑

 この作品はかつてDVD化されたものの、現在は入手困難で、中古の値段も高いので買うのを我慢していました。ところが、五月から再販されるとのことの耳寄りなニュースが!これで五月病にならずに済むかな。

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 それにしても、これほど出演作品や写真によって見た目の印象や表情が違う女優さんは珍しい。単にメークで違うのではなく、やはり演技力や表情の豊かさによる部分が大きいのではないでしょうか。

 岡田さんは歌も出していて、中でもいずみたくさん作曲、岩谷時子さん作詞の「涙こらえて」は名曲です。こちらもYOUTUBEでアップされているのでぜひ聴いてみてください(http://youtu.be/zg1eRK-TpJQ)。

 シンプルながらもメロディーがしっかりしていて、口ずさみやすくて、「上を向いて歩こう」にも引けを取らないレベル。意図的なんでしょうが、「空に~ひ~か~る~♪」という部分の歌い方がかわいすぎ(*^-^)ニコ.

 この曲は幸い、「これが青春だ」(キングレコード)というCDに収録されています。手に入れたい方は検索してみてください。
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メキシコへ渡ったサムライ [歴史]

 経済小説の開拓者として知られる城山三郎氏に、「望郷のとき~侍・イン・メキシコ」という、ちょっと毛色の変わった作品がある。前半は小説風、後半はルポルタージュ風の二部構成で、江戸時代初期にヌエバ・エスパーニャと呼ばれたメキシコへ渡り、現地に根を下ろした日本人の足跡を追い求める内容だ。読んだのがだいぶ昔なのでうろ覚えだが、アカプルコ周辺のある集落でサンダルを「ワラッチ(ワラジか?)」と呼んでいるとの逸話があり、興味をかき立てられたのを覚えている。

 1968年に出版されたこの作品では、日本人の移住を示す具体的な話はほとんど触れられていない。だがその後いくつか新資料が発見され、不完全ながらベールが取り除かれつつある。

 移住者が存在したこと自体は明白となっている。アステカ王国の元首長の子で修道士だった人物が書いた「チマルパインの日記」には、京都出身の商人とされる田中勝介が1610年に派遣された「田中使節団」のうち、3人がメキシコに残留したとある。伊達政宗が送り出し、3年後に日本を出発した「慶長遣欧使節」でも、使節団を率いた支倉常長がマニラから日本の息子に送った手紙で3人がとどまったとつづっている。この時には、ほかに数名が居残ったとみられている。

 日本生まれで現地の名を持つ者も数人が確認されており、「ルイス・デ・ベラスコ」「フアン・アントニオ」「ルイス・デ・エンシオ」「フアン・デ・パエス」などが知られる。大泉光一・青森中央学院大学教授が書いた「メキシコの大地に消えた侍たち」によると、前の2人は田中使節団で残留した3人のうちの誰からしい。2人ともヌエバ・エスパーニャの副王を務めたルイス・デ・ベラスコ侯爵に同行してスペインへ向かい、ベラスコはスペイン艦隊の船で事務長を務めるまで出世したが、その後は貧窮し、1622年5月に召使い1人を伴ってヌエバ・エスパーニャへ帰国した。フアン・アントニオはスペインに10年住んだ後、1624年2月に帰国許可を求め、支度金の支給を認められている。2人ともその後の消息は不明だ。

 一方、ルイス・デ・エンシオとフアン・デ・パエスについてはそれよりも詳しいことが分かっている。ルイス・デ・エンシオはフアン・デ・パエスの舅にあたる。

 1960年代半ば、前出の大泉氏はメキシコ第2の都市グアダラハラのメトロポリタン・カテドラル(大聖堂)に残された死者・埋葬台帳を調査した。その際に発見した文書には、「(1642年5月29日に)日本人アウグスティン・デ・ラ・クルスがグアダラハラのサント・ミゲル病院で亡くなり、遺言執行人に日本人ルイス・デ・エンシオが命じられた」と書かれてあった。同氏はその後、1980年になってグアダラハラの公文書館にある商事関係の契約書から、彼があるスペイン人との間で交わした小売業の共同経営に関する2枚の契約書を発見した。これらの契約書には、ルイス・デ・エンシオ自ら、「福地蔵人・る伊すていん志よ」および「るいす福地蔵人」と署名してあった。

 この契約書の存在は、ほぼ同時期にラテンアメリカ史の権威として知られるフランスのトマス・ガルボ博士も確認している。ただし、元スペイン大使でガルボ博士の研究に協力した林屋永吉氏は「グアダラハラを征服した日本人」(メルバ・ファルク・レジャス、エクトル・パラシオス著)に文章を寄せ、名前は「ソウエモン」あるいは「ヒョーエモン」であると説明している。

 ルイス・デ・エンシオは別の資料から1595年ごろの生まれとされ、1620年ごろに受洗してキリシタンになったとの記録も残っているようだ。移住後は小売業にたずさわり、ペニンスラール(スペイン生まれのスペイン人)やクリオーリョ(植民地生まれのスペイン人)ではないにもかかわらず、経済的成功を収めた。私生活では、スペイン人と原住民との間で生まれたメスティーソの女性と結婚。10人の子をもうけ、娘の一人はさきに触れたフアン・デ・パウロと結婚している。

 彼はどのような方法でメキシコへ渡ったのか。現時点では推測するしかない。

 有力視されているのは、慶長遣欧使節に加わったとする説だ。大泉氏は名字の福地から彼が侍で、奥州で勢威を張った葛西家の家老を務めた福地氏の一族であるとしている。林屋永吉氏も石巻港から60キロの距離にある福地村の出身ではないかと推察している。

 彼が武士か、裕福な家の出であったことは名前からもうかがえる。苗字を持つこと自体が上流階級に属する者の特権であったし、蔵人あるいは「衛門」の名も武士だった可能性を示す証拠になる。

 さらに彼は自分の名を仮名で書く際、「エンシオ」ではなく「インシオ」と記している。東北では「え」を「い」と発音することが多い。慶長遣欧使節の記録に彼らしき名は見あたらないが、この説には確かに信憑性がある。

 もちろん、他の方法が完全に排除されたわけではない。

 前に述べたように、慶長遣欧使節が日本を出発したのが1613年の10月。翌年1月末にアカプルコへ入港した。総勢180人のうち、日本人は140人あまりを占めていた。メキシコからは、支倉常長を含む一部だけが欧州へ向かっている。

 使節に参加した日本人は上陸後ほどなく数十人が受洗したという。欧州へ向かった人々は、支倉を除けばキリシタンだけで構成されていたようだ。とすれば、1620年ごろに受洗したルイス・デ・エンシオはどちらにも入らないことになる。

 ここである疑問が頭をもたげる。ルイス・デ・エンシオはなぜ1614年に到着してから6年も受洗しなかったのか。

 当時のメキシコは人種的にはわりかし寛容な社会が築かれていたが、生活となると話は別で、カトリック信者でなければ難しかった。キリシタンになることを拒絶し続けてきた彼なら支倉常長とともに帰国するか、他の参加者がそうしたように支倉を待たずに帰国するのが自然だ。

 あまり知られていないことだが、このころ日本からメキシコへ渡った使節は他にもある。1617年の初め、フランシスコ会のディエゴ・デ・サンタ・カタリーナ神父らを乗せ、日本から戻ってきた船がメキシコに到着している。カタリーナ神父は日本との国交樹立を目的に派遣され、交渉が不調に終わったために戻ってきたのである。仮にルイス・デ・エンシオが大阪の陣で浪人となり、一行に加わって渡ったとすれば、時間的な無理はなくなる。

 もしかしたら伊達政宗が慶長遣欧使節と同じように、彼をこの船で送り出したのかもしれない。そう解釈すれば、仙台藩士であっても矛盾しない。 

 このほかにも、彼がいったんマニラへ行き、そこから向かった可能性がある。

 1570年にわずか20数名だったマニラの在留邦人は、1595年には早くも1000人に達した。貿易に従事する者もいれば、流刑者もいた。その数は朱印船貿易の開始によってさらに増加。1606年にはマニラ在住の日本人が水夫の殺傷事件を機に暴動を起こしているが、この時には1500人を超えていたといわれる。

 日本人の増加と彼らの横暴ぶりに業を煮やしたスペイン側は、1608年7月に在留邦人の日本送還を命じるが、てんで効き目はなかった。キリシタンの取り締まり強化や大阪の陣による浪人の増加を背景に、1620年には3000人まで膨れあがった。こうした状況を考えれば、マニラ経由で向かった者がいても不思議はない。ルイス・デ・エンシオの義理の息子であるフアン・デ・パエスは大阪出身で1609年ごろの生まれとみられ、マニラを経由した一人である可能性が高いとされる。

 1610年代にはマニラ~メキシコ間を年に1度ガレオン船が往復し、船員として雇われた日本人もいたらしい。移住となると監視もきつく簡単ではなかったろうが、彼も義理の息子と同じルートを辿ったのかもしれない。

 晩年のルイス・デ・エンシオは事業に失敗し、妻の遺産まで食いつぶしている。それでもフアン・デ・バエスが彼以上の成功を収め、面倒を見ることができたので、けして不幸な人生ではなかったと想像される。

 ただ、異国で生き抜くことの難しさに直面し、弱気になることはあったのではないか。もはや帰ることのかなわぬ祖国を想い、人知れず涙する場面もあったろう。彼が亡くなったのは1666年、推定71歳であった。

 ポルトガル人が種子島に来航し、鉄砲をもたらしたとされるのは1543年。江戸幕府がポルトガル船の入港を禁じ、鎖国体制が事実上固まったのは1639年だ。この間100年に満たないが、海を渡り、異国の地に骨を埋めた日本人は相当数いたと思われる。大名の地位を捨ててマニラへ向かった高山右近もその一人だし、遠いところでは南米のペルーに奴隷として連れて行かれた日本人がいたことも分かっている。彼らもまた、望郷の念にかられる瞬間があったにちがいない。 


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文明の十字路へ・その4 [旅の記録]

 完結篇です。次のヒヴァで2日滞在した後は近くのウルゲンチからタシュケントに飛び、後は帰国するだけです。
                          
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 ブハラ~ヒヴァはおよそ450キロ。タシュケント~サマルカンド、サマルカンド~ブハラよりはるかに長距離で、しかも道路が格段に悪いので、かなりハードな移動になると予想されます。7、8時間はかかるでしょう。

 この日も車をチャーターしました。ホテルに頼んだので前日と同じような車を期待していたのですが、乗せられたのはソ連製のオンボロ車。もっとも、それは仕方がないことだとすぐ悟ることになります。。。

 ブハラからヒヴァまではキジル・クム(赤い砂漠)という、この国の西半分を占める大砂漠を突っ切ります。ブハラ市内を抜け出るとだんだん景色が殺伐としてきて、道路から伝わってくる振動が大きくなります。

 舗装区間はほとんどなく、大半が地面をならした程度。たとえ舗装されていてもなかなか通ってくれません。不思議に思っていたら至るところに穴。なるほど。

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 フロントガラスにヒビが。これはこの時についたものではありませんが、ヒヴァから空港のあるウルゲンチに向かう別の道中では飛び石がガラスに当たり「バチッ」。そこには涙目をした運ちゃんがいました。。。

 こんな景色が延々と続きます。区間によってはまるでシケインを走るような状態。あちこちで工事していたので遠からず整備されるのでしょうが、ほぼ最後まで揺られっぱなしでした。おまけに運ちゃんがエアコンをつけたがらない。故障を気にしてのことかもしれません。おかげで汗だくでした。そうは言いながらも、疲れが蓄積していたのでけっこう眠りましたけど。

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 あと少しでヒヴァというところで大きな川を渡ります。これが有名なアム・ダリア。欧州ではオクサス川と呼ばれてきた川です。南東のパミール高原やヒンドゥークシュ山脈に端を発し、北西のアラル海に注ぐ長さ2400キロの雄大な川です。

 アム・ダリアは「活発な川」の意。アラル海に注ぐ川にはこれより東、タシュケントの近くを流れるシル・ダリヤもあり、こちらは「静かな川」という意味です。ヨーロッパではこの2本の川に挟まれた地域をトランスオクシアナ(オクサス川の向こう)と呼んできました。

 この川は過去に何度も流れを変えていて、カスピ海に注いでいた時期もあります。これから向かうヒヴァは、流路が変わったことから17世紀に入って繁栄を始めました。

 アム・ダリアも近年は水が減り、そのせいでアラル海はどんどん水がなくなっています。今では注ぐ前に水が枯れてしまっているとか。これはソ連時代に綿花栽培が奨励され、不完全な運河が作られたためで、ウズベキスタンは世界第二位の綿花生産量を誇る一方、深刻な環境問題を抱えてしまっています。

 長い移動に何とか耐え切り、夕方に到着しました。

 本来ならタシュケント空港からそのままウルゲンチに飛んでヒヴァを訪れ、さらにブハラ→サマルカンド→タシュケントと回る方が、タシュケントの滞在時間を減らせるのでベター。あえて逆周りにしたのは、この町をクライマックスにした方がいいと考えたからでした。その考えは正解だったと思います。

 ヒヴァはサマルカンドやブハラよりはるかに小さい一方、イチャン・カラ(内城)と呼ばれる地区はそっくりそのまま世界遺産になっていて、昔の雰囲気をどこよりも深く味わえます。

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 これが玄関口にあたる西門。小さい町ながらも堂々たるつくりです。ホテルは中にあり、入場券を買って入ります。

 泊まったのは「マリカ・ヘイヴァック」。サマルカンドのホテルと同じくマリカ・ホテルグループが運営する宿です。西門近くにもマリカ・ホテルはあり、こちらはメドレセ風の立派な建物。当方が泊まった方はコテージ風ともいえる小さい建物で、豪華とはいえないものの、清潔で満足できるものでした。せっかく来たならイチャン・カラの中で宿泊した方がより浸れるはずです。

 難点は水が塩分を含んでいてきれいじゃないこと。これはイチャン・カラの外を含め、どのホテルもそうでしょう。ネットは一応できるけれども、つながりが悪く遅いので、できるのはせいぜいメールチェック程度。タシュケントのウズベキスタン・ホテルすら満足にネットが使えないので、これも致し方ありません。

 ホテルで荷を解いた後、さっそくうろつきます。

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 これが西門を入ってすぐのメーンストリート。カルタミナル(短い塔)と呼ばれるミナレットの美しさには息を呑むばかり。

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 イチャン・カラ内部は徹底して景観が統一されているので、どこに目をやっても絵になります。ここまで見事に統一感を保った観光地は欧州以外にはあまりないのではないでしょうか。

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 観光地だけあって撮影も行われていました。ビデオクリップか何かかな?結婚式を挙げたばかりのカップルもよく見かけます。

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 地元のアイドル、ラクダのカーチャです。誰も乗ってくれなくてヒマそうでした。ラクダはインド北西部から西がヒトコブ、中国北西部などの東がフタコブ。確かフタコブの学名のシノニム(異名)はウズベキスタンの一部を含んでいたバクトリア王国から来ていたはずですが、彼女はヒトコブでした。後ろに写っているように猫も多く、性格はカーチャ同様におだやか。

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 イチャン・カラの外を歩いていたときにサッカーをしていた少年。なかなかの男前です。ネットでこの写真を見つけたらぜひ連絡してくださいね!
 
 ロシアとヒヴァの関係は、ピョートル大帝時代にさかのぼります。ペルシャからの圧迫を受けていたヒヴァのハンがロシアに応援を要請したのがきっかけでした。ピョートル大帝はしばらく経ってから使節を送りましたが、政治情勢が変わっていたため使節のほとんどが殺されてしまいました。しかしこの時は報復できる状況ではなく、その後も何度か遠征の計画が立てられましたが、ヒヴァは砂漠に囲まれている上、付近にはトルクメン人の盗賊が跋扈しており、たどり着くことすら困難な時代が続きます。

 ヒヴァのハンはブハラ・ハン国のアミールに負けず劣らず残虐な人物が多く、奴隷の数でははるかにしのぐほどでした。奴隷にはペルシャ人だけでなくロシア人が相当いて、当然ながらロシアはそれを問題視していました。一方、それを懸念したのが英国でした。19世紀に入ってロシアの圧迫が強まると、シェークスピア中尉がこの地を訪れ、ハンを説得してロシア人奴隷を解放させ、侵略の口実を取り除くのに成功します。しかしそれも一時しのぎにしかならず、結局は侵略を止めることができませんでした。

 1873年には初代トルキスタン総督のカウフマン将軍が攻撃を仕掛け、ヒヴァは属国の地位に転落します。その5年前にブハラ・ハン国、3年後にはコーカンド・ハン国が占領され、中央アジアは文字通りロシアの支配下に置かれます。ブハラ・ハン国とヒヴァ・ハン国はロシア革命まで存続しますが、それは名目上のことで、中央アジアの中世はこの時代を持って終了したといえます。

 ヒヴァは昼間も十分すぎるほど美しい町ですが、圧巻だったのは夜でした。表へ出てみると…

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 もう言葉は要りませんね。ここにきて本当に良かった。

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 アトピーの症状が悪化し、足が血だらけになる中での旅でしたが、それが気にならないほど楽しめました。

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 あまり触れませんでしたが、ウズベキスタンは文明の十字路に位置するだけあって、人々の顔立ちや暮らしはさまざま。人種が混ざり合う土地ならではの、エキゾチックな顔立ちをした美しい女性がたくさんいます。それに男性も含めて性格はわりとおだやかで、イスラム教国の一部にみられるすれた感じはありませんでした。

 今回は駆け足で東のフェルガナ盆地に行けませんでしたし、ぜひまた来たいと思います。そして次は現地の人々と深く交流できるような旅にしたいですね。


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文明の十字路へ・その3 [旅の記録]

 「壮麗の焦点、王国の神殿、当時の最もユニークな治世の会合所、世界の文学の地平、当代最高の学者たちの市であった」(アブドゥル・マリク・ターリビ、サーマン朝治下)

 「この地上のあらゆる地域において、これほど繁栄し、すばらしい土地はない。もしコヘンディス(古代の城砦)の上に立つ人がいたなら、そして周囲に一瞥を投げたとしたら、この国のあらゆるところに美しい緑と鬱蒼とした新緑を除いては、何ひとつ目に入らないであろう」(10世紀の旅行家、イブン・ハウカル)  

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 慌しい旅は続きます。3日目は220キロ西にあるブハラへ。少なくとも紀元前4、5世紀から存在し、サマルカンドとともにソグディアナの中心都市として栄えたところです。イスラム文化の流入後もサーマン朝の都として興隆を支え、その後はモンゴル軍による破壊でいったん荒廃したものの、16世紀にウズベク人のシャイバーン朝が首都に定め、サマルカンドをしのぐほどの復興を遂げることになります。

 8世紀に中国の唐で安史の乱を起こした安禄山の名字はブハラを指します。彼はソグド人と突厥人の混血で、安は母の再婚相手の姓になります。同様に鑑真とともに来日した渡来僧で、唐招提寺の2代目住職を務めた安如宝の苗字もブハラを意味します。ブハラ生まれかは不明ですが、奈良時代にそんな遠くから来た人がいたとは驚きです。

 時間の制約を考え、ブハラまではホテルにお願いしてタクシーをチャーターすることに。値段は忘れてしまいました。2人ということと、乗り合いを探す手間を考えるとベターな選択だったと思います。割高といっても日本の物価からすればかなりリーズナブルですし、こんなとこで無理する必要はないかと。車は新しく快適で、道路の舗装状態も良かったのですぐに寝てしまい、気がつけば到着していました。

 ブハラのホテルは「ブハラ・パレス」。ここもタシュケントのウズベキスタン・ホテル同様に大きなホテルですが、古臭くて埃っぽい上、ロビーには蚊が飛び交っていて、快適とはほど遠いものでした。

 ブハラの人口は25万人ぐらい。ホテルが中心からやや離れていたせいか、サマルカンドより大きく感じました。まずはタクシーでアルク城へ。

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 アルク城は昔も今もブハラのシンボル。高さ10メートルはあろうかという巨大な城壁を持つ堂々たるシタデル(城塞)です。何度も破壊されては再建され、現在の城は18世紀のものとされています。ただし木造建築物は1920年の赤軍による爆撃で破壊され、残っているのは石造りの部分のみ。

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 入口でお金を払い、階段を上っていると牢屋が。説明にはここで19世紀に英国人の2人が囚われていたと書いてあります。ピンときました。おそらくチャールズ・ストッダート大佐とアーサー・コノリー大尉でしょう。

 1838年、ロシアの南下を防ぐためにアフガニスタンを押さえる必要性を痛感した英国は、第一次アフガン戦争を始めます。テヘラン駐在の政治将校だったストッダートはこの際、出兵の諒解を求めるために隣国のブハラ・ハン国へ派遣されますが、英国を警戒するアミールのナスルラーによって逮捕されてしまいます。

 一方、もう一人のコノリーは、かつてペテルブルクからインドに至る大冒険旅行をやったことのある、いわばグレート・ゲームのベテラン。彼は3ハン国を英国の主導の下に連合させることがロシアによる侵略の盾になると考えていました。そしてヒヴァ・ハン国、コーカンド・ハン国のアミールと会い、ブハラ・ハン国との連合を説くものの、敵対する3ハン国を和解させるのに失敗。そのままストッダートを救出するためブハラ・ハン国へ向かい、彼もまた自分を転覆させようとしていると疑ったナスルラーに捕われてしまいました。それが1841年11月。

 残念ながら運命の女神は彼らに微笑むことはありませんでした。やがて最悪のニュースが届いたのです。それはアフガニスタンにおける英軍壊滅のニュースでした。英国に攻められる恐れがなくなったことで、2人の運命は決してしまいました。

 牢屋から引き出された2人は、両手を縛られたまま王宮前広場(入口近くか)に連れて行かれ、群集の見守る中で自分たちの墓穴を掘らされました。跪かされたストッダートは大声でアミールをののしり、先に首をはねられました。さらに首斬り人がコノリーに「アミールはお前がイスラムに改宗するなら命を助けてやろうと仰せだ」と言うと、コノリーは「そんなまやかしは結構だ。もう死ぬ覚悟はできている」と語り、自ら首を差し出しました。1842年6月のとある朝の事です。

 コノリーの死には痛ましい後日談があります。彼が死んで20年が経ったある日、ロンドンに住んでいた妹の元に郵便局から小包が届きました。中身はボロボロになった聖書で、コノリーとストッダートが幽閉中に呼んでいたものでした。流転の末にべテルブルクのロシア人が入手し、親切にも送ってくれたのです。聖書の余白や巻末の白紙には小さな文字で彼らの悲運の詳細が書き込まれ、文章は突然、中断されていたといいます。

 英国とロシアという19世紀の2大帝国が繰り広げたグレート・ゲームは、冷戦に勝るとも劣らない壮大なスケールの勢力争いでした。そして最前線にいた人間の多くは彼らのように非業の死を遂げています。

 一方、3ハン国を含め2大帝国の間に挟まれた小国はあたかもチェスの駒のごとく扱われ、多くは近代化の波に飲み込まれ、やがては消え去っていくことになります。

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 アルク城に戻ります。城の上にはアミールの玉座や家畜小屋、モスクなどさまざまな建物があり、博物館も併設されています。ただ荒廃が目立ち、大部分はガレキと化しています。扉で閉ざされて行けなくなっているガレキのスペースは、近くのおじさんに金を払えば足を踏み入れることができます。わざわざ金払ってガレキを見たってねえ…と怪訝に思いつつ外へ出てみることに。

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 やっぱり何もなし、と思いきや… 

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 反対側の城壁近くまでテクテク歩いて行くと、旧市街が一望の下に!こりゃすごいわ。

 ブハラの歴史的建造物は1997年のブハラ建設2500年を機に大半が修復されています。一方でそれによって建物の特色が失われたとする意見もあるようです。私も同感。荒れるにまかせたアルク城の方が、幾度も外敵にさらされてきたという現実感が迫ってきてより深く印象に残るのでは。

 アルク城を出た後は旧市街を散歩。ブハラは新市街を含めると広い町ですが、旧市街は1時間もあれば歩き通せます。

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 ここはポイ・カラーン広場。巨大で壮麗なカラーン・モスクと2つのメドレセに囲まれた旧市街の中心です。アルク城と並ぶブハラのシンボルであるカラーン・ミナレットもここにあります。

 1127年にカラ・ハン朝のハーンが建設したこのミナレット、信者にお祈りを呼びかけることのほか、外敵を見張る役目も果たしていました。処刑にも使われていて、袋に詰めた罪人をてっぺんから投げ落としていたとか。このため「死の塔」という、ありがたくない別名も

 ストッダートとコノリーのケースに限らず、ブハラ・ハン国のアミールはとにかく残虐。グレート・ゲームは英国の立場から語られることが多いこともあり、3ハン国を力づくで征服したロシアがとかく敵視されがちですが、ひょっとしたら侵略されて良かったのかなとふと思ったりもします。
   
 幸いというか、工事中で上に登れませんでした。眺めは素晴らしいようですが…

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 やがてラビハウズという人口の小さな池にたどり着きます。周辺にはメドレセなどの古い建築物に加えて、チャイハナや商店、ホテルも集まっているので便利。暑い中だったのでここで飲んだ瓶コーラは格別にうまかった。

 池の周囲にはみやげ物を売るお姉さんや子供たちがいて、この国にしてはしつこく声をかけてくるのでちょっと面倒です。でもお姉さんのうちの一人がすごい美人で、思わず山の神そっちのけで見とれてしまいました。みやげ物は何も買いませんでしたけど。

 ウズベキスタンは日本に比べてはるかに貧しい国。不謹慎のそしりはまぬかれないかもしれませんが、美人のお嫁さんが欲しい人は今すぐ荷支度した方がいいかも(笑

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 最後にホテルからの朝焼けです。興奮状態が続いていたためか熟睡できず、タバコを吸おうとバルコニーに出た際に見たのがこの景色です。撮影技術がなく、美しさを再現できなかったのが残念。空の色が青から紫、赤へと変わっていくさまはこの世のものとは思えないほど感動的でした。

 ガイドブックを読む限りではサマルカンドや次に行くヒヴァほど魅力的ではなさそうだったブハラも、いざ来てみれば大満足。実際、ブハラが最も良かったという方も多いようです。


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文明の十字路へ・その2 [旅の記録]

 「話に聞いていた通り、いやそれ以上に美しい」(アレキサンダー大王)

 「東西に長く南北狭し。すこぶる堅固にして居人多し。異邦の宝貨多くこの国に集まる。土地は肥沃で、気候はおだやかで多く善馬を産する。住民の性格は勇気を好み、王様は豪勇。兵馬はよく訓練され、騎士は勇烈にして死をみること帰するがごとし」(玄奘三蔵)

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 翌朝早く起きてサマルカンドに向かいます。

 タシュケント~サマルカンドは約350キロ。飛行機もありますが、値が張る上に本数も少ないので便利とはいえなさそう。実際バス、タクシー、列車のいずれかを使うのが一般的。ここは一度乗ってみたかった特急レギスタン号で向かうことにします。

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 これがタシュケント駅。立派な建物が多い共産圏の駅舎ですが、ここもたいそう立派でした。チケットは日本でとっていたので、前日に赴く必要も、列に並ぶ必要もなし。しかも改札がなくいきなりホームへ。車両もすぐ分かりました。乗りすごしたら事前に立てたスケジュールが台無しになるのでやや不安でしたが楽勝でした。レギスタン号のタイムテーブルはネットでもチェックできます。

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 レギスタン号。中央アジア屈指の豪華列車として有名な割には…。日本の感覚でいるとがっかりすると思います。コンパートメントは片側3人掛けのシートが向かい合っていて、お茶と簡単なサンドイッチが出されます。残念だったのは、窓が汚れていて車窓の景色がよく見えない点。ただし、タシケント~サマルカンドの景色は特筆に値するほど美しくはなく、さして印象に残りませんでした。ありがたかったのは乗降口そばのデッキに灰皿があってタバコが吸えたこと。

 コンパートメントではロシア系と思しき10代の少年少女とご一緒しました。女の子はかわいかったなあ。意外にもアイフォーンを持っていました。おそらくかなり裕福なんでしょう。ソ連崩壊を機にロシア人は減る一方。ただし上流階級に属する人が多めで、彼女たちもそうなのでしょう。

 真夏とはいえ、タンクトップ一枚のきわどい格好をしていたのは驚き。ウズベキスタンはイスラム圏に属します。後ろ指をさされることはないのでしょうか?もっとも彼女たちに限らず、この国では都市部では特に欧米並みに着飾った女性が多く、とてもイスラムには見えません。「なんちゃってイスラム」といわれるのもうなずけます。

 女の子の姿に気後れして、おじさんは写真を撮らせてもらうのを忘れてしまいました。。。

 朝7時に出発し、11時前に到着。ついに憧れの土地に足を踏み入れたかと思うとこみ上げるものがあります。

 サマルカンドは「人が集う場所」という意味で、紀元前2000年から存在しているといわれます。古くは商売上手で知られ、東西交易で重きをなしたソグド人が住み、アレキサンダー大王の遠征時にはかなりてこずらせたことでも知られます。唐とアッバース朝が戦ったタラス河畔の戦いの後、中国以西で初の製紙工場が作られたのはこの地。イスラム教が入ってからも、いわゆるマーワラー・アンナフルの中心地として繁栄し、世界一の都市とさえ言われました。その後はモンゴル軍の来襲で壊滅的な損害を受けたものの、その後に登場したティムールによって再建され、繁栄を取り戻すことになります。 

 現在は人口40万人に満たない小さな町ですが、それはそれでのんびりとしていて好印象。

 ふと見上げると、これでもかというほど澄み切った青空。さすがは「青の都」と呼ばれるだけのことはあります。灼熱の7月は旅にふさわしい季節ではないのでしょうが、この青空を見れただけで大満足です。

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 宿泊先は「マリカ・プライム」。今回の旅でダントツに良かったホテルでした。こじんまりとしてるけど、とにかく清潔でおしゃれ。3年前にできたばかりだそうです。従業員も親切で文句なし!事情あって無理なお願いもしたのですが、イヤな顔ひとつせずとことん付き合ってくれました。しかもホテルの前は緑が豊か。ロケーションも良いので個人旅行者にはかなりおすすめです。

 ホテルを出てまず向かったのは、歩いて5分の場所にあるグル・アミール廟(支配者の墓)。ティムールとその一族をまつった墓所です。

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 この建物がまたすばらしい。青いドーム(円屋根)が色鮮やかで、さすがに中央アジア建築物の最高傑作のひとつとされるだけのことはあります。ちなみにこのドーム、「ひだ」の数が63本あるとか。これは預言者モハメッドの没年が63歳だったことから決められたそうです。

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 これが内部。壁から天井に至るまで、黄金のきらびやかな装飾が施されています。あまりの豪華絢爛さに、2人して口をポカンと開けたまま見入ってしまいました。

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 真ん中にある黒緑色をした棺がティムールのもの。実際にはこの中に遺体はなく、地下3メートルの場所にある墓室に安置されているそうです。

 1941年、ソ連の学術調査で棺が初めて開けられました。ティムールは足を引きずっていたことから「びっこのティムール」と呼ばれていました。よく戦闘中に負傷したためとされますが、どうやら原因となった傷はその時のものではなく、若いころに盗賊をしていた際にできたもののようです。調査結果はというと、やはり渾名の通り右足が短かったとのこと。

 ティムールはチンギス・ハンに次ぐ巨大な版図を手中にした人物ですが、私の中では冷徹なイメージがあるチンギス・ハンと違い、何となく親しみやすい存在。実際にはティムールもけっこう残虐な行為を行っているんですが。
 
 おそらくチンギス・ハンが草一本残らなかったといわれるほど方々を破壊し尽くしたのに対し、行政面でも手腕を発揮して国家の建設にも力を入れたほか、部下に自らの財産を惜しみなく与えた点がそうイメージさせるのでしょう。

 ただしティムール朝の隆盛を語る上で、孫であるウルグ・ベクの貢献を忘れるわけにはいきません。彼は醜い後継者争いが繰り広げられる中で息子に殺されるという悲劇的な最後を遂げた人ですが、学者肌の人だったようで、文化の面で多大な貢献をしました。彼自身も研究にいそしんだという天文台の遺構は今も残されています。ソ連の学術調査では、彼が首を切り落とされて死んだことも裏づけられました。

 グル・アミール廟の次はサマルカンドのシンボル、レギスタン広場へ向かいます。レギスタン号の名前にもなっているこの言葉は「砂の土地」を意味します。昔この辺りは運河で、砂場が多かったためだとか。数百メートル歩くと、壮大なメドレセ(神学校)が前庭を囲んだ有名な景色が左手に見えてきました。

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 これがレギスタン広場。正面からの写真は検索してみてください。観光スポットの中には写真と実際がかけ離れていてがっかりするものが少なくありませんが、写真で見たままの素晴らしい場所でした。抜けるような青空の下で巨大な建造物がそそり立つ姿は圧巻。
       

 レギスタン広場を過ぎると道を左に折れます。10分くらいでしょうか。やがて左手に見えてくるのは、イスラム世界で最大規模とされるビビハニム・モスク。ティムールのインド遠征からの凱旋を称え、妃のビビハニムが作らせたとされるモスクです。

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 この建物にまつわる伝説にはいろいろあり、完成はしたもののティムールの気に入らず、建築家が処刑されたといわれています。あるいは絶世の美女とされたビビ夫人に惚れた建築家が愛を告白し、彼女が頬にキスするのを許したところ跡が残ってしまい、凱旋から帰ってその事実を知り、怒り狂ったティムールは建築家を処刑し、妃をミナレット(尖塔)から投げ落としたといいます。もしくはビビ夫人はその美貌を誰にも見られないよう、ワランジャ(黒いベール)で顔を覆うようになったとも。イスラム女性が顔に黒いベールをかけるようになったのはそれがきっかけだとか。

 グル・アミール廟の修復が完了しているのに対し、このモスクは崩れかけのままで修復も遅々として進んでいない様子。でも崩れかけたドームや壁がかえって悠久の歴史を感じさせてくれます。

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 ビビハニム・モスクの隣にはシャブ・バザールという大きなバザールがあります。サマルカンド独特の硬いナンやザクロを買ってみては。
                                          

 さてシャブ・バザールを過ぎ、大きな通りを越えるとそこにあるのはシャーヒ・ジンダ廟。「生きる王」を意味する墓所で、ティムール朝ゆかりの貴族らが眠っています。

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 傾斜地に、古くは11世紀、新しいものでも15世紀のお墓がずらりと並んでいて、入り口のタイルや内部の装飾には目を見張るものがあります。青の都を象徴する場所です。

 シャーヒ・ジンダ廟の向こうはアフラシャブの丘と呼ばれていて、1220年にモンゴル軍が来襲し、住民の4分の3が殺されるという大殺戮を行うまでここに町がありました。中央の小高い丘に宮殿があり、それを取り囲むように貴族や政府高官の家が並んでいたそうです。周囲は運河で囲まれ、運河の外周に一般の住民が住んでいました。

 それが今やすっかり荒れ果て、往時をしのぶものは何ひとつ残っていません。それでもアレキサンダー大王時代のコインや中国の貨幣が出土することもあったようで、運が良ければ世界一の都市といわれた時代の痕跡を見つけられるかもしれません。丘に隣接した博物館ではソグド人の壁画も見られます。

 ホテルからここまで2キロぐらいでしょうか。一本道を無駄なく歩いてきたとはいえ、ものすごい炎天下だったのでかなり疲れました。さらに歩いて30分ほどの場所にあるウルグ・ベク天文台跡をパスしてしまったのが悔やまれます。

 余談ですが、ウズベキスタンでは普通のミネラルウォーターだけでなく、炭酸水も普通に販売されています。味はというと、銘柄にもよるけど微妙、かな。でもこの暑さを考えると炭酸水の方が体調維持に効果的なのかも。暑さで意識がもうろうとしていたのか、山の神は2回も買い間違えてしまいました。

 それと困ったのが昼食。観光地の割に適当なレストランがない。疲れているので地元料理は避けてピザとか軽めにしたかったけど、ホテルのそばにあるレストランはあまりおいしくなさそう。どうしようかと二人して話しながらタクシーでホテルに戻っていたら、見慣れた「M」の文字が!なんだ、ウズベキスタンにもマクドナルドあるんじゃ~ん!いや~、助かった。

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 (; ・`д・´) ナ、ナンデスト!!

 結局ホテルの近くまで歩いて戻り、おいしくないピザを食べるハメに。ちなみに「マロカンダ」というのはサマルカンドの昔の名前です。知識って本来、苦労しながら身につけていくものなんですよね?


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