文明の十字路へ・その4 [旅の記録]
ブハラ~ヒヴァはおよそ450キロ。タシュケント~サマルカンド、サマルカンド~ブハラよりはるかに長距離で、しかも道路が格段に悪いので、かなりハードな移動になると予想されます。7、8時間はかかるでしょう。
この日も車をチャーターしました。ホテルに頼んだので前日と同じような車を期待していたのですが、乗せられたのはソ連製のオンボロ車。もっとも、それは仕方がないことだとすぐ悟ることになります。。。
ブハラからヒヴァまではキジル・クム(赤い砂漠)という、この国の西半分を占める大砂漠を突っ切ります。ブハラ市内を抜け出るとだんだん景色が殺伐としてきて、道路から伝わってくる振動が大きくなります。
舗装区間はほとんどなく、大半が地面をならした程度。たとえ舗装されていてもなかなか通ってくれません。不思議に思っていたら至るところに穴。なるほど。
フロントガラスにヒビが。これはこの時についたものではありませんが、ヒヴァから空港のあるウルゲンチに向かう別の道中では飛び石がガラスに当たり「バチッ」。そこには涙目をした運ちゃんがいました。。。
こんな景色が延々と続きます。区間によってはまるでシケインを走るような状態。あちこちで工事していたので遠からず整備されるのでしょうが、ほぼ最後まで揺られっぱなしでした。おまけに運ちゃんがエアコンをつけたがらない。故障を気にしてのことかもしれません。おかげで汗だくでした。そうは言いながらも、疲れが蓄積していたのでけっこう眠りましたけど。
あと少しでヒヴァというところで大きな川を渡ります。これが有名なアム・ダリア。欧州ではオクサス川と呼ばれてきた川です。南東のパミール高原やヒンドゥークシュ山脈に端を発し、北西のアラル海に注ぐ長さ2400キロの雄大な川です。
アム・ダリアは「活発な川」の意。アラル海に注ぐ川にはこれより東、タシュケントの近くを流れるシル・ダリヤもあり、こちらは「静かな川」という意味です。ヨーロッパではこの2本の川に挟まれた地域をトランスオクシアナ(オクサス川の向こう)と呼んできました。
この川は過去に何度も流れを変えていて、カスピ海に注いでいた時期もあります。これから向かうヒヴァは、流路が変わったことから17世紀に入って繁栄を始めました。
アム・ダリアも近年は水が減り、そのせいでアラル海はどんどん水がなくなっています。今では注ぐ前に水が枯れてしまっているとか。これはソ連時代に綿花栽培が奨励され、不完全な運河が作られたためで、ウズベキスタンは世界第二位の綿花生産量を誇る一方、深刻な環境問題を抱えてしまっています。
長い移動に何とか耐え切り、夕方に到着しました。
本来ならタシュケント空港からそのままウルゲンチに飛んでヒヴァを訪れ、さらにブハラ→サマルカンド→タシュケントと回る方が、タシュケントの滞在時間を減らせるのでベター。あえて逆周りにしたのは、この町をクライマックスにした方がいいと考えたからでした。その考えは正解だったと思います。
ヒヴァはサマルカンドやブハラよりはるかに小さい一方、イチャン・カラ(内城)と呼ばれる地区はそっくりそのまま世界遺産になっていて、昔の雰囲気をどこよりも深く味わえます。
これが玄関口にあたる西門。小さい町ながらも堂々たるつくりです。ホテルは中にあり、入場券を買って入ります。
泊まったのは「マリカ・ヘイヴァック」。サマルカンドのホテルと同じくマリカ・ホテルグループが運営する宿です。西門近くにもマリカ・ホテルはあり、こちらはメドレセ風の立派な建物。当方が泊まった方はコテージ風ともいえる小さい建物で、豪華とはいえないものの、清潔で満足できるものでした。せっかく来たならイチャン・カラの中で宿泊した方がより浸れるはずです。
難点は水が塩分を含んでいてきれいじゃないこと。これはイチャン・カラの外を含め、どのホテルもそうでしょう。ネットは一応できるけれども、つながりが悪く遅いので、できるのはせいぜいメールチェック程度。タシュケントのウズベキスタン・ホテルすら満足にネットが使えないので、これも致し方ありません。
ホテルで荷を解いた後、さっそくうろつきます。
これが西門を入ってすぐのメーンストリート。カルタミナル(短い塔)と呼ばれるミナレットの美しさには息を呑むばかり。
イチャン・カラ内部は徹底して景観が統一されているので、どこに目をやっても絵になります。ここまで見事に統一感を保った観光地は欧州以外にはあまりないのではないでしょうか。
観光地だけあって撮影も行われていました。ビデオクリップか何かかな?結婚式を挙げたばかりのカップルもよく見かけます。
地元のアイドル、ラクダのカーチャです。誰も乗ってくれなくてヒマそうでした。ラクダはインド北西部から西がヒトコブ、中国北西部などの東がフタコブ。確かフタコブの学名のシノニム(異名)はウズベキスタンの一部を含んでいたバクトリア王国から来ていたはずですが、彼女はヒトコブでした。後ろに写っているように猫も多く、性格はカーチャ同様におだやか。
イチャン・カラの外を歩いていたときにサッカーをしていた少年。なかなかの男前です。ネットでこの写真を見つけたらぜひ連絡してくださいね!
ロシアとヒヴァの関係は、ピョートル大帝時代にさかのぼります。ペルシャからの圧迫を受けていたヒヴァのハンがロシアに応援を要請したのがきっかけでした。ピョートル大帝はしばらく経ってから使節を送りましたが、政治情勢が変わっていたため使節のほとんどが殺されてしまいました。しかしこの時は報復できる状況ではなく、その後も何度か遠征の計画が立てられましたが、ヒヴァは砂漠に囲まれている上、付近にはトルクメン人の盗賊が跋扈しており、たどり着くことすら困難な時代が続きます。
ヒヴァのハンはブハラ・ハン国のアミールに負けず劣らず残虐な人物が多く、奴隷の数でははるかにしのぐほどでした。奴隷にはペルシャ人だけでなくロシア人が相当いて、当然ながらロシアはそれを問題視していました。一方、それを懸念したのが英国でした。19世紀に入ってロシアの圧迫が強まると、シェークスピア中尉がこの地を訪れ、ハンを説得してロシア人奴隷を解放させ、侵略の口実を取り除くのに成功します。しかしそれも一時しのぎにしかならず、結局は侵略を止めることができませんでした。
1873年には初代トルキスタン総督のカウフマン将軍が攻撃を仕掛け、ヒヴァは属国の地位に転落します。その5年前にブハラ・ハン国、3年後にはコーカンド・ハン国が占領され、中央アジアは文字通りロシアの支配下に置かれます。ブハラ・ハン国とヒヴァ・ハン国はロシア革命まで存続しますが、それは名目上のことで、中央アジアの中世はこの時代を持って終了したといえます。
ヒヴァは昼間も十分すぎるほど美しい町ですが、圧巻だったのは夜でした。表へ出てみると…
もう言葉は要りませんね。ここにきて本当に良かった。
アトピーの症状が悪化し、足が血だらけになる中での旅でしたが、それが気にならないほど楽しめました。
あまり触れませんでしたが、ウズベキスタンは文明の十字路に位置するだけあって、人々の顔立ちや暮らしはさまざま。人種が混ざり合う土地ならではの、エキゾチックな顔立ちをした美しい女性がたくさんいます。それに男性も含めて性格はわりとおだやかで、イスラム教国の一部にみられるすれた感じはありませんでした。
今回は駆け足で東のフェルガナ盆地に行けませんでしたし、ぜひまた来たいと思います。そして次は現地の人々と深く交流できるような旅にしたいですね。
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