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文明の十字路へ・その3 [旅の記録]

 「壮麗の焦点、王国の神殿、当時の最もユニークな治世の会合所、世界の文学の地平、当代最高の学者たちの市であった」(アブドゥル・マリク・ターリビ、サーマン朝治下)

 「この地上のあらゆる地域において、これほど繁栄し、すばらしい土地はない。もしコヘンディス(古代の城砦)の上に立つ人がいたなら、そして周囲に一瞥を投げたとしたら、この国のあらゆるところに美しい緑と鬱蒼とした新緑を除いては、何ひとつ目に入らないであろう」(10世紀の旅行家、イブン・ハウカル)  

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 慌しい旅は続きます。3日目は220キロ西にあるブハラへ。少なくとも紀元前4、5世紀から存在し、サマルカンドとともにソグディアナの中心都市として栄えたところです。イスラム文化の流入後もサーマン朝の都として興隆を支え、その後はモンゴル軍による破壊でいったん荒廃したものの、16世紀にウズベク人のシャイバーン朝が首都に定め、サマルカンドをしのぐほどの復興を遂げることになります。

 8世紀に中国の唐で安史の乱を起こした安禄山の名字はブハラを指します。彼はソグド人と突厥人の混血で、安は母の再婚相手の姓になります。同様に鑑真とともに来日した渡来僧で、唐招提寺の2代目住職を務めた安如宝の苗字もブハラを意味します。ブハラ生まれかは不明ですが、奈良時代にそんな遠くから来た人がいたとは驚きです。

 時間の制約を考え、ブハラまではホテルにお願いしてタクシーをチャーターすることに。値段は忘れてしまいました。2人ということと、乗り合いを探す手間を考えるとベターな選択だったと思います。割高といっても日本の物価からすればかなりリーズナブルですし、こんなとこで無理する必要はないかと。車は新しく快適で、道路の舗装状態も良かったのですぐに寝てしまい、気がつけば到着していました。

 ブハラのホテルは「ブハラ・パレス」。ここもタシュケントのウズベキスタン・ホテル同様に大きなホテルですが、古臭くて埃っぽい上、ロビーには蚊が飛び交っていて、快適とはほど遠いものでした。

 ブハラの人口は25万人ぐらい。ホテルが中心からやや離れていたせいか、サマルカンドより大きく感じました。まずはタクシーでアルク城へ。

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 アルク城は昔も今もブハラのシンボル。高さ10メートルはあろうかという巨大な城壁を持つ堂々たるシタデル(城塞)です。何度も破壊されては再建され、現在の城は18世紀のものとされています。ただし木造建築物は1920年の赤軍による爆撃で破壊され、残っているのは石造りの部分のみ。

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 入口でお金を払い、階段を上っていると牢屋が。説明にはここで19世紀に英国人の2人が囚われていたと書いてあります。ピンときました。おそらくチャールズ・ストッダート大佐とアーサー・コノリー大尉でしょう。

 1838年、ロシアの南下を防ぐためにアフガニスタンを押さえる必要性を痛感した英国は、第一次アフガン戦争を始めます。テヘラン駐在の政治将校だったストッダートはこの際、出兵の諒解を求めるために隣国のブハラ・ハン国へ派遣されますが、英国を警戒するアミールのナスルラーによって逮捕されてしまいます。

 一方、もう一人のコノリーは、かつてペテルブルクからインドに至る大冒険旅行をやったことのある、いわばグレート・ゲームのベテラン。彼は3ハン国を英国の主導の下に連合させることがロシアによる侵略の盾になると考えていました。そしてヒヴァ・ハン国、コーカンド・ハン国のアミールと会い、ブハラ・ハン国との連合を説くものの、敵対する3ハン国を和解させるのに失敗。そのままストッダートを救出するためブハラ・ハン国へ向かい、彼もまた自分を転覆させようとしていると疑ったナスルラーに捕われてしまいました。それが1841年11月。

 残念ながら運命の女神は彼らに微笑むことはありませんでした。やがて最悪のニュースが届いたのです。それはアフガニスタンにおける英軍壊滅のニュースでした。英国に攻められる恐れがなくなったことで、2人の運命は決してしまいました。

 牢屋から引き出された2人は、両手を縛られたまま王宮前広場(入口近くか)に連れて行かれ、群集の見守る中で自分たちの墓穴を掘らされました。跪かされたストッダートは大声でアミールをののしり、先に首をはねられました。さらに首斬り人がコノリーに「アミールはお前がイスラムに改宗するなら命を助けてやろうと仰せだ」と言うと、コノリーは「そんなまやかしは結構だ。もう死ぬ覚悟はできている」と語り、自ら首を差し出しました。1842年6月のとある朝の事です。

 コノリーの死には痛ましい後日談があります。彼が死んで20年が経ったある日、ロンドンに住んでいた妹の元に郵便局から小包が届きました。中身はボロボロになった聖書で、コノリーとストッダートが幽閉中に呼んでいたものでした。流転の末にべテルブルクのロシア人が入手し、親切にも送ってくれたのです。聖書の余白や巻末の白紙には小さな文字で彼らの悲運の詳細が書き込まれ、文章は突然、中断されていたといいます。

 英国とロシアという19世紀の2大帝国が繰り広げたグレート・ゲームは、冷戦に勝るとも劣らない壮大なスケールの勢力争いでした。そして最前線にいた人間の多くは彼らのように非業の死を遂げています。

 一方、3ハン国を含め2大帝国の間に挟まれた小国はあたかもチェスの駒のごとく扱われ、多くは近代化の波に飲み込まれ、やがては消え去っていくことになります。

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 アルク城に戻ります。城の上にはアミールの玉座や家畜小屋、モスクなどさまざまな建物があり、博物館も併設されています。ただ荒廃が目立ち、大部分はガレキと化しています。扉で閉ざされて行けなくなっているガレキのスペースは、近くのおじさんに金を払えば足を踏み入れることができます。わざわざ金払ってガレキを見たってねえ…と怪訝に思いつつ外へ出てみることに。

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 やっぱり何もなし、と思いきや… 

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 反対側の城壁近くまでテクテク歩いて行くと、旧市街が一望の下に!こりゃすごいわ。

 ブハラの歴史的建造物は1997年のブハラ建設2500年を機に大半が修復されています。一方でそれによって建物の特色が失われたとする意見もあるようです。私も同感。荒れるにまかせたアルク城の方が、幾度も外敵にさらされてきたという現実感が迫ってきてより深く印象に残るのでは。

 アルク城を出た後は旧市街を散歩。ブハラは新市街を含めると広い町ですが、旧市街は1時間もあれば歩き通せます。

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 ここはポイ・カラーン広場。巨大で壮麗なカラーン・モスクと2つのメドレセに囲まれた旧市街の中心です。アルク城と並ぶブハラのシンボルであるカラーン・ミナレットもここにあります。

 1127年にカラ・ハン朝のハーンが建設したこのミナレット、信者にお祈りを呼びかけることのほか、外敵を見張る役目も果たしていました。処刑にも使われていて、袋に詰めた罪人をてっぺんから投げ落としていたとか。このため「死の塔」という、ありがたくない別名も

 ストッダートとコノリーのケースに限らず、ブハラ・ハン国のアミールはとにかく残虐。グレート・ゲームは英国の立場から語られることが多いこともあり、3ハン国を力づくで征服したロシアがとかく敵視されがちですが、ひょっとしたら侵略されて良かったのかなとふと思ったりもします。
   
 幸いというか、工事中で上に登れませんでした。眺めは素晴らしいようですが…

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 やがてラビハウズという人口の小さな池にたどり着きます。周辺にはメドレセなどの古い建築物に加えて、チャイハナや商店、ホテルも集まっているので便利。暑い中だったのでここで飲んだ瓶コーラは格別にうまかった。

 池の周囲にはみやげ物を売るお姉さんや子供たちがいて、この国にしてはしつこく声をかけてくるのでちょっと面倒です。でもお姉さんのうちの一人がすごい美人で、思わず山の神そっちのけで見とれてしまいました。みやげ物は何も買いませんでしたけど。

 ウズベキスタンは日本に比べてはるかに貧しい国。不謹慎のそしりはまぬかれないかもしれませんが、美人のお嫁さんが欲しい人は今すぐ荷支度した方がいいかも(笑

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 最後にホテルからの朝焼けです。興奮状態が続いていたためか熟睡できず、タバコを吸おうとバルコニーに出た際に見たのがこの景色です。撮影技術がなく、美しさを再現できなかったのが残念。空の色が青から紫、赤へと変わっていくさまはこの世のものとは思えないほど感動的でした。

 ガイドブックを読む限りではサマルカンドや次に行くヒヴァほど魅力的ではなさそうだったブハラも、いざ来てみれば大満足。実際、ブハラが最も良かったという方も多いようです。


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