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文明の十字路へ・その1 [旅の記録]

 旅好きで放浪のようなことをしていたというと、「どこが一番良い?」とよく聞かれます。

 でもこの質問、的確に答えるのが本当に難しい。社交辞令で聞いてきただけなら適当に返せば済むけれど、心から参考にしたがっている場合は、こちらとしてもおざなりに答えるわけにはいかない。

 旅好きとはいっても大きな都市をなぞるようにひと通り訪れただけ。訪問国を増やすこと自体が楽しみだった時代こそ過ぎ去ったとはいえ、自分より多くの国を訪れている人はザラにいて、げんに親友の一人は2倍近い国を訪れていたりします。

 生半可な経験しかない自分がエラそうに答えてしまっていいものか。。。

 それにひきかえ、「次はどこに行きたい?」という質問は楽チンです。また行きたい場所か、行き損ねた場所を挙げればいいんですもん。順位づけにしたって、その時々で多少は違えども、いつも同じような結果になりますしね。あとは行ける条件さえ整えばってそれが一番難しいか。う~ん、定年が待ちきれん。このままだとその頃にはくたばってるかもしれんし、何とかならんのか。。。

 そんなもどかしい思いをしていた矢先、まとまった休みがとれる絶好のチャンスが。仕事がほんの少し落ち着き、周囲の理解もあって永年勤続休暇の権利を行使できそうになったのです。

 海外へ行けるのが夏休みぐらいしかなく、しかも連続だと土日を含めても5日程度が限界。これに対し、永年休暇は平日だけで連続5日の休暇取得が可能です。土日と合わせれば9日間も夢じゃない!

 さっそく仕事中にも見せない真剣な顔つきで世界地図を眺めます。

 チベットのラサからカトマンズへ移動しつつエベレストを眺めてくるってのはどう?

 ラダックのレーから中国のヤルカンドにも抜けてみたいなあ。

 今回は山の神が同行するからある程度はゴージャスにしないと。二度目だけどアメリカ西海岸をドライブってのもいいかな。オーストラリアもいいね♪

 とまあ、自分でもあきれるほど次から次へとアイデアがわいてきて、日夜こうした会話が人知れず繰り返されるわけです。そのクセして結論は出ていたりするのですが。

 昔から興味があったのに機会が得られず、行きたくてムズムズしていた場所とは中央アジア。中央アジアと聞いただけで、シルクロード、タメルラン、グレート・ゲーム、マーワラー・アンナフル…と、子供のように胸がワクワクドキドキするキーワードが次から次へと思い浮かぶのです。

 できればカザフスタン、キルギス、タジキスタン、トルクメニスタン、ウズベキスタンの5カ国すべて訪れたい。アフガニスタンもね。でもさすがに9日間じゃ厳しい。でもって泣く泣くウズベキスタン1カ国に絞ることに。

 とはいえ、ウズベキスタンは中央アジアの中心を占め、観光名所や歴史的遺産も他の国より多いので、この国だけでも大いに楽しめそう。大事なのは現地に赴き、現地の空気を吸うこと。旅したいと思ってあれこれ調べるだけでも大いに価値があるとは思いますが、現地に行き、ついでに知識を身につければ一石二鳥です。

 日本からウズベキスタンへ空路で訪れるには、主に以下の4つの方法があります。

 1、ウズベキスタン航空
 2、アエロフロートロシア航空
 3、トルコ航空
 4、アシアナ航空または大韓航空

 この中で1だけが直行便。せっかくならモスクワかイスタンブールを加えたい。でもわずか9日でウズベキスタンと合わせて観光するのは日程的にかなりきつい。しかも旅行会社にあたってみると、トルコ航空便は空席なし。天下のアエロフロートもなぜかこの時期は直行便より値段が高かったり。いつでも行けて、たいして興味もない韓国はパス。健康面や山の神の参加を考慮し、直行便を使うこととします。

 実はウズベキスタン航空、なかなか便利なんです。日系キャリア並みのサービスは望むべくもありませんが、中央アジア最大規模の航空会社で保有機材も多く、安全面では十分に合格点をつけられます。日本からは関空経由の便が週2回飛んでいて、結局は9日間まるまる使えないとはいえ、限られた期間で効率よく回るにはやはり便利です。

 さて、東京の生活でたまった垢を流しに行くとしますか!

 あ、行ったのは昨年の7月です。画像の行方が分からなくなって今さらのアップになった事実はくれぐれも伏せといて下さいませm(_"_)m

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  9時間のフライトを終えてタシュケント国際空港に降り立つと、出迎えたのは予想以上に殺風景な建物でした。しかも、この便の乗客はこのまま他の目的地に飛ぶ人が多く、誰も建物から出る気配がない。いきなり空港のどこから出ればいいのか、そもそも出てもいいのかすら分からないときた。そこら辺、いかにも旧ソ連の国といった感じです。ここはテキトーに動いていたらすんなり出られました。

 ちなみに、物価が経済レベルに比べて高めなのもソ連的。正確な相場は忘れましたが、タクシーの値段は台湾とあまり変わらなかった印象があります(白タクは別)。といっても、たいていの商品は日本より安く、例外はティッシュくらいでしょうか。これはイジョーに高かった。

 タシュケントの人口は200万人以上。中央アジア最大の都市で、唯一の地下鉄もある大都会です。

 タクシーから街を眺めていて意外だったのは、これでもかというくらい街路樹が植えられ、緑が多いこと。ガードレールがなく、道路が広いせいもあるのか、まるで公園の中を走っているように感じます。オアシスに支えられてきた国だから自然保護の意識が高いのかな?

 あるいは計画的な町づくりに異常ともいえるほどの熱意を燃やしていた共産党の発想かもしれません。特にこの町は1966年の地震で壊滅状態になり、近代都市へと変貌を遂げた経緯があります。ここは新市街だし、人工的な印象からしてやっぱこっちかな。独裁に近い国なので誰かさんの見栄もあるのでしょう。

 前に訪れたウランバートル同様、この都市も「ヘソ」が分からない。どうやら宿泊したウズベキスタン・ホテルの前にある中央広場が中心といえそうです。が、周辺を歩いても高級ブティックがチラホラあるぐらいで、繁華街は一向に見あたらない。とにかくだだっ広く、人口密度が低い。

 ちなみにお世話になった旅行会社の話によると、この国を訪れる場合は事前にホテルを決めておかないとNGだとか。バックパッカー時代なら「そんなこたあ知らん!」で済ませる話ですが、今回はアドバイスに従いました。費用はともかく、限られた期間で効率よく回るならこっちの方が断然いいです。苦労を楽しむ旅でもないし。

 はっきり言ってウズベキスタン・ホテルはいまいちでした。大きくて、団体旅行にもよく使われる有名ホテルですが、いかんせん建物が古い。ネットも1階に降りないと使えず、おまけになぜか日本で買っていった電源のアダプターが合いませんでした。これは貸してもらえましたけど。

 あとこの国はレギストラーツィア(滞在登録)が必要で、宿泊の際にはホテルにパスポートを預け、チェックアウト時にスタンプを押してもらう必要があります。これをしないと場合にっては厄介なことになるので注意。と書いておきながら、山の神が見事にもらい忘れ、慌てふためく場面のあった今回の旅でした。

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 夕方に到着し、ざっとシャワーを浴びた後で周辺を散策。う~ん、緑がいっぱいで清潔なので気分は爽快、と言いたいところですが…とにかく暑い。ウズベキスタンの7月は「チッラ」と呼ばれ、30度超えは当たり前。下手すりゃ45度とかになります。この日も35度ぐらいあったでしょうか。日本のようにジメジメはしてないけど、風があまり吹かず、直射日光の下なのでしんどいです。もっとも、それは無理やり連れてきた山の神の機嫌を損ねまいと気遣ったためかも(笑。陽が落ちきってようやく涼しくなりました。 

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 この中央公園、もともとはスターリンの像が建っていました。その後はマルクス。そして今はティムール(タメルラン)です。中世のユーラシア史を語る上で欠かせないこの征服者は、ソ連崩壊後に再出発したこの国のシンボル的存在。といっても、ティムール自身はテュルク化したモンゴル系部族バルラスの出身で、人口の8割を占めるウズベク族の人ではありません。ウズベク族は北方から南下してきてティムール朝を崩壊させた民族なので、敵対する存在ともいえます。

 それなのに持ち上げるのは不自然に思えますが、背景には多様な民族で構成されるこの国を統治する上で、彼の名声を利用する思惑があるようです。さらにいえば、中央アジア全体を征服した彼を前面に押し立て、中央アジアのリーダーであることを誇示したいのではないでしょうか。

 タシュケントはこれから向かうサマルカンドやブハラに比べると見どころは少なめ。第二次大戦でソ連に抑留された日本兵が建設にひと役買ったアリシェル・ナボイ劇場や、アミル・ティムール博物館はありますが、時間がないのでパス。旅の基点に使うだけで我慢です。

 とはいえかつては石国と呼ばれ、玄奘三蔵も通ったことがあり、それなりに歴史はあります。

 19世紀のユーラシア大陸では、不凍港を求めて南下するロシアと、インドを奪われたくない英国による激しいせめぎ合いが繰り広げられました。それがグレート・ゲームです。その中でこの国を含む西トルキスタンはことごとくロシアの手に落ちていくわけですが、タシュケントはその橋頭堡になった町です。

 19世紀の西トルキスタンは「3ハン国」と呼ばれていたコーカンド・ハン国、ブハラ・ハン国(ブハラ・アミール国)、ヒヴァ・ハン国が支配していました。タシュケントはコーカンド・ハン国に属していました。交易の便に恵まれ、豊かな果樹園や牧草地に囲まれた10万都市だったため、ブハラ・ハンのアミール(藩王)は機会を見つけては併合しようと目論み、何度もちょっかいを出していました。そして1865年、両国は再び戦闘を始めます。

 ここで漁夫の利を得ようと進出を開始したのがロシアでした。この年の5月、ロシア軍はタシュケント城を攻めて25倍の敵を駆逐すると、税金を1年間免除するなど寛容をもって市民にのぞみ、たちまちのうちに心をつかんでしまいました。2年後にはトルキスタン総督府が置かれ、コーカサスでの戦いで勇名を馳せたカウフマン将軍が初の総督に任命されます。彼は与えられた任務を見事にこなし、3ハン国は次々とロシアの軍門に下り、中央アジアのロシア化・近代化が急速に進むことになります。

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 最後にタシュケントの車事情を簡単に。裕福とはいえないこの国でもマイカー購入者は増え続けているようです。目立つのは韓国車。特におなじみのマティスはよく見かけました。日本車で多かったのはスズキのスプラッシュ。ハンガリー生産の世界戦略車ですが、もしかしたらインドでも生産しているのかもしれません。そうでなくてもスズキが強いインドの販売網を生かしているのは確かでしょう。
     
 聞くところによると、この国の自動車市場に本格参入したのは韓国メーカーの方が先だったとか。最近は鉄鋼や造船、電機などさまざまな業界で韓国メーカーの躍進が目立ちます。円高ウォン安、あるいは法人税率や電力代の差などを考え合わせると、自動車分野で追いつかれるのも時間の問題という気がします。彼らから見習う点もあると思います。特にこういう、大きいとはいえない市場を軽視しない姿勢を見習ってほしい。この国が重要な市場になる日は意外と近いかもしれませんし、もともと日本メーカーも小さい市場を拾うことで欧米メーカーとの差を縮めたんですしね。
         
 この国はまだまだ発展途上で、外車よりも古い旧ソ連製の車が目立ちます。ぜひ日本メーカーには今のうちに手をつけてほしいものです。
            
 さあ、旅は明日からが本番です。

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台湾へ [旅の記録]

 明けましておめでとうございます。
                      
 更新が少ないにもかかわらず、いつも多くのアクセスをいただき誠にありがとうございます。あいかわらずの多忙多病ですが、多病の方はおかげさまで予定より大幅に遅れながらもようやくゴールが見えてきました。今年は圧縮空気を一気に開放し、多くのことに挑戦したいと思います。
                 

 さて、今回のお題は台北です。

 昨年11月に仕事で台北、台中、新竹と訪問しました。5泊6日だったとはいえかなりタイトなスケジュールでフリーの時間があまりなく、たいして有益な情報もありませんが、台北観光の王道ということで、初めて行かれる方の参考になればと思います。

 今回の出張はさる機関からの招きで、おかげで事前準備はほとんどせずにすみました。キャリアはエバー航空。チャイナエアーも選べたのですが、事故率が高いので避けました。

 台湾は、その昔トランジットでごくわずかな時間だけ滞在したのを除けば初めて。日本から近いのでじきに訪れると思い、キープしておいたのでした。

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 台湾旅行の何がいいかって、何といっても羽田―松山空港便という、すばらしく便利な便がある点。成田まで出向く必要がない上、松山空港は台北市内のど真ん中といっていいほどの場所にあるので国内線感覚で利用でき、かなり時間と体力の節約になります。

 しかも今回はビジネスクラス!ほぼ180度までリクライニングできるシート、贅を尽くした機内食、快適な全日空のラウンジと、至れり尽くせりでした。約3時半のフライト時間が短すぎると残念に感じたくらい。

 松山空港は国内線中心で羽田よりかなり小さく、空の玄関口にふさわしいとは言い難い施設ですが、大きすぎず、小さすぎず、なかなか便利な空港でした。

 少しでも時間を稼ぐため、日曜到着の予定を土曜日に変えていただき、土日であらかた観光することに。土曜の夕方に到着してホテルにチェックインした後、タクシーを拾い士林の夜市へ。

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 台湾名物として知られる夜市の中でも、ここは最もメジャーな場所です。多分に観光客向けな部分はありますが、射的やファストフードの出店が賑やかに沿道を埋め尽くし、日本の夏祭りに似た気分を1年中味わえます。

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 出店の中にはこんなものまで。麻雀牌を使っているけど要するにビンゴ。牌のヤマからいくつか選び、縦、横、斜めのいずれかが揃えば景品がもらるようです。並んだ列の数が多いほど景品のグレードもアップするようで、1等の中にはiPhoneも。ただし、1等はよほどのことがない限りないみたい。

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 屋台村というか、食堂を集めた施設もあります。有名なそぼろご飯で50円程度だったでしょうか。観光客向けなので味はいまひとつ。留学中で現地に住んでいる同僚も味の面ではあまりおすすめしないとのことでした。体験しただけでよしとします。

 沿道の人波は夜遅くなってもなくなることはありません。短い滞在でも士林の夜市は外せません。

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 翌日はまず市の北郊にある故宮博物院へ。

 故宮博物院は北京にもありますが、台北の方が質、量ともに北京を圧倒しています。国共内戦に敗れた国民党が台湾へ逃げる際に多くの文物を持ち去ったのはご存知の通り。殷周時代の土器から国宝級の山水画や陶磁器、中華民国時代の外交文書に至るまで、ありとあらゆる貴重な遺産に囲まれていると、悠久の歴史が肌身に感じられます。

 写真撮影は禁止なのでお見せできず残念。駆け足で見てもゆうに2、3時間はかかるので、事前に調べ、基礎知識を頭に叩き込んでおいた方がベターかもしれません。そうでなくても日本語案内の携帯プレーヤーを借りた方が展示内容をよく呑み込めるはずです。

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 後ろ髪を引かれる思いで故宮博物院を後にして、次は市内やや西寄りにある西門町(シーメンディエン)へと向かいます。ここは日本で言う渋谷や原宿のような場所。実際、渋谷のハチ公前に雰囲気がソックリでした。

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 西門町を訪れたなら、ぜひ紅楼に足を運ぶべし。かつて日本が台湾を統治していた時代、この周辺には多くの日本人が住み、現在と同じく台湾の流行発信地になっていました。

 日本が日清戦争で勝利し、下関条約を結んで台湾を植民地化すると、清朝が数十年前に築き、台北市を取り囲んでいた城壁が取り払われました。そして台風の被害に見舞われたこともあり、近代的な街へと変貌を遂げます。

 紅楼は日露戦争直後の1908年に建てられました。台北には総督府として使われていた総統府も現存していますが、当時の街並みを今に残す貴重な建物です。

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 後日訪れた台北駅前。日台合弁のデパート「新光三越」があり、ここもかなり賑やか。

 ちなみに台北市の人口は約260万ですが、周囲を囲んでいる新北市には400万人近くが住んでいて、ざっと見た感じでも大阪よりは小ぶりだけれど、名古屋とはいい勝負という印象。ただし想像していたほど先進的ではなく、地震対策もあるのか、最近まで世界で最も高い高層ビルだった「台北101」以外に高いビルはあまりないようです。

 むしろ氾濫する広告看板はいかにも中国的。適度に清潔で、日本でおなじみの店があって便利で、さらには人も礼儀正しく親切で、それでいてアジア的カオスのあるところが最大の魅力ではないでしょうか。

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 アジア的カオスといえばスクーターも取り上げなくてはいけません。市民の足になっていることはもちろん知ってたけど、まさかこんなに多いとは…。車にしか乗らない人にはさぞかし邪魔でしょうが…

 路上駐車もかなりひどい。台湾では車を購入するのに車庫証明が必要ないため、路駐天国となってしまい、都市部の駐車場不足はかなり深刻。マナーを守ろうにも駐車場がなくてはどうしようもない。盗難のリスクもあるし、早急に解決せねばなりませんね。

 ただ、誰もまったく困らない場所にちょっと駐めただけでも高いお金をふんだくる日本の制度も大いに問題アリだぞ\_(・ω・`)ココ重要!

 まあ、ちゃんと払いますけどね…

 車の顔ぶれは日本とほぼ同じでした。違いは日本メーカーの米国仕様や米国車が多い点ぐらいでしょうか。あと日本で売られていない欧州車や韓国車も見ました。高級車の比率は東京とそう変わりません。軽自動車は見かけませんでしたけど。

 ちなみに気のせいか、台湾では車高を下げた車が多い気が…。これは本当にそうなのか、残念ながら確認できませんでした。

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 写真はアコード。これが米国仕様なのかはよく分かりませんし、もともとアコードのデザインは良くできていると思うけど、ここではえらくカッコ良く見えたな~。中国旅行の際にも触れたように、どうもホンダ車は海外向けの方がデザインがよろしいようで。せっかく日本で発売した欧州仕様のシビックもなぜかタイプRになっちゃってるし。もう少し考え直した方がいいと思うけどな~

 最近、米国で評判の悪いアコードのクロスツアーが気になっています。最近のホンダ車に共通して見られるせり上がったウエストラインは鬱陶しいものの、なかなかユニーク。むしろこの車は日本で販売した方が面白そうです。

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 もう1台。インフィニティのクロスオーバーです。FX45かな?何台か見ました。日本では逆輸入車扱いですが、東京ではたまに見かけます。これもいいデザインしてますね。カイエンよりはるかにこっちの方がいいわ(オーナー様すみません)

 まあ、SUVにはいい車が多いと認めながらも、車高が高く後ろの車に迷惑になるのと、都会に住みながら理由なく乗るのが恥ずかしいのと、ソアラを手放す気がないのとで買う予定はございません…

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 余談です。新竹で泊まったシェラトンの部屋。それはそれは豪華で、当方には勿体のうございました…。メシも最高!自腹じゃないので余計に満喫できましたよ(笑。メシ食った後にすぐバタンキューしたのが悔やまれます。

 円高もあって台湾の物価はかなり安いです。ホテルの値段は別として、市内の移動は新交通システムやバスを使わなくてもタクシーで十分。スニーカーやジーンズは日本の3分の2から半額くらいの印象でした。買うものを決めとけば良かった。

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 駆け足の観光だったので、他に行ったのは総督府と、蒋介石の顕彰施設である中正記念堂、台北101ぐらい。台北101は残念ながら天気とスケジュールが合わず、地下のレストランで食事しただけで終わってしまいました。   

 もし時間があれば、高級住宅地の天母(テンブー)、郊外にある新北投温泉あたりに行くといいでは。映画「悲情城市」のロケ地で「千と千尋の神隠し」のモデルとされる九份(ジォウフェン)や、港町で夕陽が美しい淡水(ダンシュイ)も日帰り圏内にあります。

 体調面で不安もあったけど、やっぱ海外は良いですな!帰国後の反動を入れても十分おつりのあった旅でした。

 仕事の方も、今回は10数カ国の人に混じってのツアーで、英語力のなさに凹む場面も多々ありましたが、それも終いには互いに嫁のグチをこぼし合うほど打ち解けたとさ(笑

 最後に中正記念堂がある民主広場のパノラマ写真を載せておきます。前回取り上げたカシオのコンデジには360度のパノラマ写真を簡単に撮影できる機能もついています。次はボタンひとつで動くスライドショーにしてみたい。

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タグ:台湾 台北
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加工してみた・その2 [車]

 デジカメは仕事の必需品で、これまではニコンの一眼レフを携行していました。でも重くて荷物が増えるので不便。今年は特に出張が多く、CFSを抱える当方はそのたびに難渋していました。

 そんな折、同僚がリコーのコンカメを購入。画像の出来映えの良さに、隣で指をくわえて見ているのが我慢ならず、衝動的に買ってしまいました。

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 それがこれ。カシオ計算機の「エクシリムEX-ZR100」です。前に買ったエクシリムが全く使えなかったのでちょっと不安でしたが、これは当たりでした。シャッターの切れは良いし、持ちやすさ、操作性もなかなかのもの。フルHDの動画も撮れるし。前回デジカメを買ったのが5年以上前だったとはいえ、その進歩にはかなり驚かされました。

 それにしても、これだけ高機能化して2万円以下とは。デジカメなんて最低でも3万円台後半はするものと思い込んでいたので、これまたびっくりです。

 なぜ前回の失敗があったのにエクシリムを選んだかというと、この機種にはHDR機能が搭載されているから。HDR機能はペンタックスの一眼などにも搭載されていますが、エクシリムの絵は群を抜いて魅力的。「これでソアラを撮れば、腕のない自分でも人様に見せられる程度の画像が楽に撮れる」との下心が背中を押したのでした。

 先週末の夕方、近くの公園でソアラを撮影してみました。

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 そこそこきれいで、自然もわりと豊かな公園。でも足繁く通いたくなるほどではない。おまけに紅葉シーズンが終わりに近づき、樹木の葉が落ちかけて寂しげです。

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 HDRモードで撮影した画像はこれ。ほとんど変化がないですね。そこでダイヤルを回して「HDRアート」にしてみると…

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 絵画チックに大変身!寂しげだった樹々もいきいきとして、色を取り戻したかのよう。それにしても、やっぱソアラはカッコいいわ~。

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 前方から。HDRアートでは白い部分が黒く染まります。反対にグリルは白っぽく変化。いずれにせよ、カッコいいことに変わりはありません(笑。
                         
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  今度は真後ろから逆光気味に。この方がより効果的かも。

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 そして真横。冬の夕方は空が澄んでいて、おまけに夕映えが美しいので撮影にうってつけですね。寒さに弱い当方も日暮れまで夢中で撮影。

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 質感がイマイチなコックピットも十分サマになります。

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 実は、このコンカメを買ってもう数ヶ月になるのですが、いまだに見ていて全く飽きが来ない。

 唯一困った点を挙げるなら、見る方が楽しくなりすぎ、撮影しに出かける機会がさらに減ったこと(笑。それでは本末転倒なので、正月こそどこかへ出かけてみようと思っています。


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加工してみた・その1 [車]

 ソアラが家族の一員となったのが確か2005年8月だったから、もう6年半近くになるわけです。購入時の走行距離は3万1000キロでした。対して現在の距離はというと、7万6000キロ弱。う~ん年に1万キロ以下か~。週末ドライバーとはいえ乗らなさすぎだな~。

 特に今年は、たまに乗ったとしても気分転換を兼ねて都心まで馬券を買いに行く程度。100キロ以上遠くに行ったのは一度もないかもしれません。旧車の仲間入りつつあるとはいえ、さほど故障を気にせず、長距離をガンガン、快適に走れるのがこのクルマの魅力でもあるはずなのに。これじゃあいけませんね。

 ということでソアラに関するトピックスは以上。

 で終わるのはちと寂しいので、暇つぶしにやってみた画像加工の話を取り上げます。

 ちょっと前までの画像加工といえば、フォトショップを使ってメンドクサイ操作にアクセクしながら…というイメージでしたが、最近は手法が多様化して、タダで楽しめるサービスも充実してきました。そこで手元にある画像を使って暇つぶしに加工したソアラたちをアップしておきます。 

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 前に当ブログで取り上げたものを適当に加工したものです。ネタばらしをしてしまうと、使ったのは「写真加工ドットコム」というネットサービス。無料で利用できる上、適当にボタンを押していれば「はい一丁上がり」というあっけなさ。

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 これは加工前。三脚を使ったのでピントは一応合っていますが、せっかく有名ブランドのお店が背景なのでもうちょっと華やいだ雰囲気にしたいところ。かといって撮り直しに行くのはめんどっちい。

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 そこでちょっと明るめにしてみました。構図を替えるのはさすがに無理ですが、これだけでも少しは華やかになった、かな?

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  地元の商店街。何の変哲もない、どこにでもありそうな商店街がそこそこ見られるようになるから不思議です。カネないヒマない技術ないの三拍子そろった人(つまり私ということですが)にはうってつけです。

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  いつだったか、真夜中に横浜の赤レンガ倉庫まで流したときの写真です。小雨がそぼ降る中の撮影で、しかもこの後すぐお巡りさんが来て追い立てられたため、これ一枚しか撮れませんでした。これをいじくると…

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 こんなのや…

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 こんなのまで。雨に濡れた路面が強調され、人気のない倉庫の美しさを引き立てています。実際は真夜中にもかかわらずけっこう人がいて、後ろ指をさされながらの撮影だったんですけど(笑

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 「東京散歩」の中で取り上げた六本木での写真を加工してみました。構図とピントさえ何とかすればド素人でもプロっぽくできそうです。

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 これはHDR加工。元画像よりも陰影がはっきりしています。

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 昭和風のスナップにしてみました。当時はこんな感じだったのかな?1978年だとまだ存在していませんね(笑。残りは「みんカラ」で。


タグ:ソアラ
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お龍と人斬り半次郎 [歴史]

 歴史好きにもかかわらず、大河ドラマはほとんど見ないのですが、その恩恵に浴する出来事がありました。
  
 影響力のある大河ドラマは出版業界にとって一大イベント。特に昨年の「龍馬伝」は、坂本龍馬と福山雅治さんという、人気者どうしの取り合わせだったこともあり、いつも以上に関連本を目にしたように思います。
  
 おかげで、普通ならテーマが地味すぎて出版できないような本が書店に並んだり、高価すぎて手が出せなかった本が新書や文庫本として復活することも。今回、特にありがたかったのは、お龍の回想録が新書として出版されたことでした。

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         (お龍とされる写真ですが…最近は別人説が有力に) 
                     

 お龍さんもかなりの有名人ですから、回想録がとっくに出版されていてしかるべきはずなのに、なぜか今まで単行本すら存在していませんでした。龍馬ブームのおかげてそれが簡単に入手できるようになったのです。しかも新書で。「わが夫 坂本龍馬」(朝日選書)という本がそれです。
   
 戦国時代と並んで歴史ファンの多い幕末ですが、人気の割に日記や回想録といった一次資料の文庫本や新書は少ないように思います。有名どころだと田中光顕の回想録やアーネスト・サトウの日記、龍馬の手紙をまとめたものぐらいでしょうか。
     
 「わが夫 坂本龍馬」は回想をそのまま掲載しているわけではなく、「反魂香」や「千里駒後日譚」といった生前の聞き書きを集め、読者が理解しやすいよう、三人称を一人称にしたりして、整理し直したものです。それでも本人の性格や考え方がストレートに伝わってくる点、回想録と変わりません。
   
 正直言って、お龍の回想は一冊の本としては出版されていなかったとはいえ、さまざまな本で部分的に取り上げられているので、購入時はさほど期待していませんでした。買うのが遅れたのもそのためでした。けれども読み進めてみると、知らなかったエピソードがけっこうあり、目から鱗が落ちる思いでした。
    
 中でも面白かったのが、中村半次郎との出来事です。お龍が寺田屋で「お春」として働いていた時分というから、慶応元年ごろのことでしょう。何と、中村がお龍に関係を迫ったというのです。
    
 この日、仲間の薩摩藩士とともに寺田屋で泥酔した彼は、店の者が誰も酌をしないのに腹を立て、あたりかまわず皿を投げつけるなどして暴れていました。そこで「私が静めて参りましょう」と、彼のいる二階の部屋へ上がって行ったのがお龍。無言で彼のそばに座り、いきなり手酌で5杯、6杯と酒を飲み干すと、
    
 「暴れたってしょうがないじゃありませんか。つまりはあなたの器量を下げるばかりですよ。今夜は私がお相手をいたしますから、充分召し上がってください」
     
 とキツ~イ一言。気を呑まれた中村は言われるままに酒を酌み交わし、ついには酔い潰れてしまいました。
        
 ところがその夜更け。中村は女にしてやられた悔しさからか、はたまた器量良しのお龍を気に入ったのか、お龍の部屋に侵入するなり手を掴んで、
      
 「こら!貴様は今夜は俺の寝室へ来て寝ろ!」
      
 と脅し始めました。

 これに対し、気の強いお龍さんは一歩も退きません。龍馬の名を持ち出さずに、
         
 「冗談言っちゃいけませんよ。寺田屋のお春ですよ。宿場女郎とは違いますからねえ。人を見て法を説いてください」
    
 そう見事に啖呵を切ってみせたのでした。
       
 でもその瞬間、彼女が身に着けていた短刀が床にポトリ。それを見た中村は、
        
 「女のくせに短刀なぞを持っておるは怪しいぞ。よくよく取り調べる件があるから、俺といっしょに来い!」
       
 と激昂し、仲間がいる部屋へとお龍を引っ張り込みました。いよいよピンチです。

 ところが、結果的にこの短刀が彼女を救うことになります。

 二人がそのまま言い合いを続けていると、短刀を見て何か思い出したらしい仲間が慌てて中村の袖を引き、
         
 「ありぁ土州の坂本龍馬の妻だ。僕はこの短刀に見覚えがある。君、とんだことをしたなあ」
          
 と言ったから、さすがの中村も青ざめたことでしょう。翌日お龍をご馳走して、
         
 「どうか昨晩のことは坂本氏には内証にしてください」
         
 と平身低頭で頼み込んだとか。
              
 他愛のないエピソードといってしまえばそれまでですが、もしもこの件が広まれば中村は切腹させられていたかもしれません。そして、西南戦争の行方にも少なからず影響を及ぼしたのではないでしょうか。
         
 それにしても、人斬り半次郎に真っ向から立ち向かうとはお龍さん、強すぎです(^-^;)

*少しだけ表現を変更していますが、基本的な内容はこの通りです。


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「明治ミスコン事件」異聞 [歴史]

 明治憲法が施行された明治23年(1890年)は、東京・浅草に凌雲閣が完成した年でもある。俗に「浅草十二階」と呼ばれたこの建物は高さ52メートル。完成当時は日本初の高層建築物として東京中の話題をさらった。

 この建物にはもう一つ、「日本初」に絡んだ話がある。日本で初めての美人コンテストがここで行われたのだ。

 開業翌年に行われ、「東京百美人」と銘打ったこのミスコンは、有名写真家の小川一真が撮影した女性の写真を各階の壁に貼り、一般客に投票してもらうというものだった。イベントは主催者の狙い通り、大盛況だったらしい。

 ただ、この時は芸者などの「くろうと」が対象。一般女性を対象にしたミスコンは、時事新報社が明治41年(1908年)に行った「深窓令嬢美人コンクール」が最初だ。このため、こちらの方を日本初のミスコンとみなす向きもある。今回はこちらの話を取り上げたい。

 このミスコン、もともと米国のシカゴ・トリビューン社が企画し、各国に応募を呼びかけた話に時事新報社が乗ったことから行われた。

 応募者は7000人に及び、彫刻家の高村光雲らが審査にあたった結果、末弘ヒロ子という、学習院に通う16歳の女学生が一等に選ばれた。

ブログ・末弘ヒロ子.jpg
                           

 現代でも十分に通用する可憐な乙女を見て、新聞読者の誰もが一等に選ばれたことを納得した。

 ところが、ここにきて思わぬトラブルが持ち上がる。学習院が、「学校の対面を汚す」として、ヒロ子を放校処分にしたのである。当時の学習院長は、あの乃木希典だった。

 そもそもヒロ子は自ら応募したわけではなかった。写真店の店主だった義兄が写真を勝手に送ったのだ。それなのに放校処分という不名誉を蒙ってしまったのだから、泣くに泣けなかったろう。
 
 時事新報社は厳しい処分を科した学習院に猛然と抗議し、新聞紙面上で大々的に批判を展開した。他の新聞も彼女に同情し、それにならった。
 
 中でも大阪毎日新聞の舌鋒は鋭かった。同紙は追放の背景に他の女性徒の嫉妬があったと断定的に指摘。「心の腐った女子を矯正することを急務とせねばならぬ」とまで書いている。そうした事実があったかどうかは不明で、おそらく他の女性徒からすれば、とばっちりとしかいいようのない事だったに違いない。

 記事ではさらにこう弁護している。

 「学習院の女学部から日本一の美人を出したといふのは、尚近衛の兵営に日本一の偉大なる体格の兵士が居るといふと、一般で寧ろ秀英を集めた点において誇るべき事である」
 
 軍人である乃木への皮肉を込めてそう書いたのだろうが、兵士と美人を同列に扱うその視点が面白い。

 乃木はその後、ヒロ子が自分から応募したのではなかったと知り後悔した。そしていわば罪滅ぼしとして、ヒロ子を野津道貫(陸軍元帥、侯爵)の息子、鎮之助に娶せたという。結婚直前に道貫は死去し、彼女は一躍、侯爵夫人となった。

 これが世に言う、「明治ミスコン事件」の顛末である。

 この事件は今も時たまテレビで取り上げられ、かなり知られている。「名門校の面汚し」とされ、肩身の狭い思いを強いられた女性が玉の輿に乗るというシンデレラストーリーは、時代を超えて心和ませるものがある。

 ところが真相はやや違うようだ。

 末弘ヒロ子は華族ではなかったもののれっきとしたお嬢様で、父親の末弘直方は小倉市長を務め、家はかなり裕福だった。平民の入学も許されていたとはいえ、そんな出自でなければ学習院には入らないだろう。

 さらに末弘直方は薩摩の出で、同郷の野津道貫とは親密な間柄にあった。両家は家族ぐるみで交際し、鎮之助とヒロ子は幼少時から結婚の内約があったという。

 二人の結婚は道貫が病気で倒れた後、死去する間の1908年10月6日に行われている。

 「乃木が罪滅ぼしのためにヒロ子を野津家に嫁がせようとしたのだとしたら、野津家の人々は道貫が重病の最中に結婚式を挙げるだろうか」

 ノンフィクション作家の黒岩比佐子さんは鋭い指摘をしている。どうやら乃木将軍が二人を娶せたといいうのは、乃木という英雄につきまとう神話の一つにすぎないようだ。

 ヒロ子を追い出した〝犯人〟も乃木ではなく、強硬に放校を主張したのは別の人物だったらしい。学習院に軍隊風の教育を持ち込もうとした乃木だが、この時は賛成も反対もしなかったとされる。

 ヒロ子のその後の人生についてはよく分からない。だが無事〝許嫁〟と結ばれたのだから、ひとまずめでたい話とはいえるだろう。

 ちなみにこのミスコン、7000人もの応募があったと書いたが、実際は水増しに近いものだった。ミスコンという、「得体の知れないもの」に積極的に応じる女性はまだ少なかった。賞品目当てもあっただろうが、地方新聞を巻き込みつつ本人や親を説得し、けっこう無理してかき集めたらしい。

 コンテストの翌年、河岡潮風という人がこう書いている。

 「大福餅の潰れた様な顔の令嬢やら、山本勘助を女にした様な年増迄続々と送つてくる。夫れをお定りの粗製用紙に印刷するから、尚更デコボコになつて、一時は不美人展覧会の様な始末。心ある士をして、『美人あるなし、天下に美人ある無し』と三嘆せしめた」

 何ともすさまじい罵倒ぶりである。こうなると逆に顔が見たくなる。

 実は、彼女たちの写真は今でもさして苦労せずに見ることができる。ポーラ研究所がまとめた「幕末・明治美人帖」(新人物文庫)に、一次審査を通過した214人の写真が収録されているのだ。

 ここでは写真の印象を述べることはあえてやめておく。ただ、彼女たちの相当数が自ら望んだわけでもないのに参加させられ、そのうえ後世の人間たちからも云々される立場になってしまったことに同情を禁じ得ない、とだけ書いておこう。


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美人を追ってどこまでも [歴史]

 もし。

 「おっ、スッゲエ美人!」

 と、街角で声を上げたらどうなるでしょう。そこにいる男性の大半は反応鋭く辺りをキョロキョロ見回し始めるのではないでしょうか。何食わぬ顔をして、目だけはちゃっかり〝獲物〟を探している人もいるでしょう(笑

 美人であることは時に多くの同性を敵に回しかねませんが、美人が嫌いという男の話は聞いたためしがありません。

 当方もご他聞にもれずソワソワしてしまうタイプ。俗に「三日で飽きる」などといわれますが…そんなわけないわさ。もっともそんな女性と付き合ったことはなく、妻に娶ってもいないので実証不可能です(笑

 ともかく、男を代表する意気込みで美人研究に日夜いそしんでいる当方であります。

 ただし、世間とは少しばかり感覚の乖離があるようで…。乖離なんて小難しい言葉を使ってしまいましたが、要するにズレがあるということです。

 よく言われるんですよねえ。「お前はストライクゾーンが広すぎる」って。昔は面食いで通ってたんだけどな~

 話が逸れてしまいました。。。

 感覚の乖離について触れたのは、久しぶりに近代美人のことを取り上げようと思ったからです。

 確かに世の男性の大半は美人好きでしょうが、当方のように「昔の美人フェチ」で、究極の美人を発掘すべく日頃からアンテナを張り巡らしている人間となると、そうはいないと思います。

 残念ながらインターネットが普及しているとはいえ、一般女性の美人は存在を知ることすら困難。ですが、名の知れた人物に限っても美人データベースらしきものは作れます。まだまだ未完成ですが、今回はその中から海外の美女を何人かピックアップしたいと思います。

 名の知れた人物限定ということで、自ずとサンプル数に限りがあり、飛び抜けた美人とはいきません。それでも波乱万丈な人生という装飾が加わり、昨今のミス・ユニバースと比べても遜色ない魅力は備えていると思います。それでは100年以上昔にタイムスリップしてみましょう。

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 トップバッターは秋瑾(1875~1910年)。清代末期の動乱中国にあって革命に一生を捧げた女性です。中国版ジャンヌ・ダルクといったところでしょうか。

 浙江省紹興にルーツを持つ名士の家に生まれ、湖南省の豪商の息子に嫁いだ彼女は、革命への想いやみ難く、2児を生むと夫と別れて日本へ留学します。そして孫文を中心に東京で設立された革命団体の中国革命同盟会に加盟し、女性革命家としての道を本格的に歩み始めます。

 やがて清朝に気がねした日本政府が中国人留学生への締め付けを強め始めると、彼女はこれに激しく反発し、学生の一斉帰国を強硬に主張します。激情家だった彼女は集会で「反対者は死刑!」と声高に叫び、演壇に向かって短刀を投げつけたといいます。

 帰国した彼女は紹興に住み、革命家を育成するべく学校を設立し、武装蜂起に向け準備を進めます。しかし同郷の革命家、徐錫麟の蜂起に呼応して兵を挙げようとした彼女の企図は清朝によって挫かれ、捕らえられた2日後に斬首されてしまいました。

 着物を身に纏い、右手に日本刀を捧げたこの写真、彼女を取り上げる際に必ずといっていいほど用いられています。画像が鮮明でなく判別しずらい面はありますが、目鼻立ちが整っていて確かに美人。鋭い目つきから強気な性格が伺えます。

 彼女の写真は他にもいくつかあるようですが、残念ながらこれ以上に顔が良く分かる写真はまだ見つけていません。

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 次は今は亡きハワイ王国から。カイウラニ王女(1875~1899)は、王国最後の女王であるリリウオカラニ女王の姪にあたる人です。リリウオカラニには子供がなく、彼女は王位継承者とされていました。

 しかし、1893年にハワイ革命が起こるとリリウオカラニは退位に追い込まれ、やがて王国は滅亡。1898年には米国に併合されてしまいます。そしてカイウラニはその翌年、わずか23歳で病死してしまいました。美人薄命とはまさにこのこと。

 カイウラニの父親は白人(スコットランド人)で、鼻筋が通り、目がパッチリしているあたり、ネイティブハワイアンとはかなり違います。正面写真を見ると少し顎が張っていますが、エキゾチックな顔立ちは魅力十分。

 ちなみにこのカイウラニ、幼いころに日本の皇族との縁談が持ち上がったことがあります。リリウオカラニの兄で当時の王だったカラカウア王が、米国が虎視眈々と併合を狙う中で前途を危惧し、明治天皇に山階宮定麿王との政略結婚を持ちかけたのです。

 けれども不平等条約の撤廃を目指していた当時の日本は米国を敵に回したくないと考えたようで、結局この話は流れてしまいました。もし結婚していたならその後のハワイも日米関係も違ったものになっていたことでしょう。

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 凛々しい顔立ちをしたこの女性はジャネット・ジェローム(1854~1921)。あのウィンストン・チャーチルの実の母で、彼女自身は米国人です。

 チャーチルといえばでっぷりと太った第二次大戦前後の姿を思い浮かべますが、若いころはかなりの美男子でした。その形質はジャネットから受け継いだようです。

 ジャネットは夫に忠誠を尽くしつつも、英国国王のエドワード7世をはじめ多くの男性と浮名を流したといいます。そうした派手な男性遍歴は、チャーチルのキャリアアップにも何かしらの役に立ったようです。

 彼女は夫の死後、2度結婚しています。相手は2人ともチャーチルと同年代で、一方の男性に至っては3つ年下だったとか。

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 当時の女優に目を転じてみましょう。この女性はフランスのサラ・ベルナール(1844~1923)。彼女はおそらく最も有名な19世紀の女優でしょう。さまざまな舞台で活躍したほか、絵画や写真にもモデルとしてかかわり、19世紀後半から20世紀初頭にかけてフランスの芸術が大輪の花を咲かせる上で大きく貢献しました。草創期の映画にも出演しています。

 この写真は有名写真家のフェリックス・ナダールが撮影したものです。自然なしぐさにもかかわらず芸術的に見えるナダール独特の作風がサラの魅力を十二分に引き出しています。

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 こちらはサラと同様、女優で同時代を生きた英国のエレン・テリー(1848~1928)です。シェイクスピア演劇の役者として有名な人です。

 当時の女優は社会的地位が低く、サラ・ベルナールの場合は売春婦の娘として生まれ、自らも売春婦を兼ねていた時期があったようです。これに対してエレンは演劇一家に生まれ、子供も演出家や俳優になっている点、いわば演劇界のサラブレットと言え、サラとは似て非なる存在です。ただし、彼女もサラと同じく男性遍歴は華やかで(サラはバイセクシャル)、3度の結婚歴があります。

 このポートレートは16歳の時に撮影されたもので、撮影者は女流写真家のジュリア・マーガレット・キャメロンです。キャメロンは「巨匠」ナダールと違い、当時は半ばアマとして扱われ、評価が高まったのは20世紀に入ってから。脱力感のあるポーズに象徴される作風は、有名な「オフィーリア」を描いた画家ジョン・ミレーに代表されるラファエロ前派の流れを汲むといわれます。撮影者の作風が2人の個性の違いをいっそう浮き立たせています。

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 さて、19世紀の美人で当方が暫定トップに選んだのがこの目鼻立ちのくっきりとした正統派美人、アリス・ケッペル(1869~1947)です。ジャネット・ジェロームのところで触れたエドワード7世の「おめかけさん」として知られる人物です。

 エドワード7世は母親のヴィクトリア女王とは対照的に奔放な性格で、女遊びが激しい人でした。ベッドを共にした女性は数えきれず、その中にはサラ・ベルナールも含まれています(う、うらやましい)。その中でこのアリス・ケッペルは特にお気に入りで、片時も手放さなかったといいます。 

 アリスは伯爵家に嫁ぎましたが、そうはいっても相手は三男坊で跡継ぎではなく、裕福な生活は望むべくもありませんでした。彼女のような立場にある女性が生活や社会的地位の向上を望む場合、もっとも手っ取り早かったのが公妾になることでした。今のモラルではちょっと考えられませんが、当時はわりと当たり前のことだったといいます。

 気品にあふれたたたずまいに、「ロイヤル・ミストレス」としてのプライドが垣間見えます。


 いかがだったでしょうか。たった6人では満足できないかもしれませんね。美人研究はライフワークなので今後も取り上げていくつもりです。

 それにしても、6人それぞれ生い立ちや境遇が同時代人とは思えぬほど違っていて、見た目もさまざま。近代美人はそこがいいやね~

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 い、いやね、だからといって現代女性がダメだなんてこれっぽっちも言ってませんよ(節操なさすぎ?)


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再開 [その他]

 ひと月近く経ったんですね。 

 通信の混雑が緩和されたらなるだけ早くブログアップして、亡くなられた方々にお悔やみの言葉をお伝えしたいと思っていたのですが、ずるずるとここまできてしまいました。

 あまりに理不尽でむごい自然の仕打ちに呆然とし、なかなか書く気が起こらなかったのが本音です。多少なりとも仕事に影響があり、少しでも肉体的・精神的なリソースを仕事に振り向けたかったという事情もありますし、何より混乱が続く中でアップしても邪魔になるだけとの思いが優先しておりました。

 遅ればせながら、亡くなられた方々のご冥福を心よりお祈り申し上げます。また、大切な人を亡くされた方、不自由な生活を余儀なくされていらっしゃる方、経済的損失をこうむった方には、ぜひとも心を強く持ち、悲しみや苦しみを克服していただきたいと陰ながら願っております。

 残念ながら未曾有の被害をもたらした今回の震災ですが、一方で私にとって今回ほど日本人であることを強く意識し、それを誇りに感じた出来事はありません。

 中国人研修生を安全に非難させた後、行方不明になった水産加工会社の経営者。自宅に取り残された妻を救い出すため、スキューバダイビングの装備を身につけ、ガレキだらけの暗闇を泳いで駆けつけた夫。津波に呑まれる直前まで防災無線で冷静に避難を呼びかけ続けた南三陸町の女性職員。そして苦しい境遇に置かれながらも自らを律し、団結する被災者たち…。

 今はこうした人々のいる国に生きてきて良かったとつくづく感じています。日本人が度重なる天災を教訓としながら美徳として身に着けた考え方や生き方は、けして間違っていなかったのだと思います。

 ただ、原発の事故はいまだ収束していませんし、これから予想もしなかったさまざまな問題が噴出することになるでしょう。困難に直面し、私たちの真価が問われる場面は多々あるはずです。

 そうした困難を乗り越えるためにも、あえてこのタイミングで残念な出来事に触れ、問題提起したいと思います。

 今回の震災における日本人の冷静な振る舞いは、海外メディアにも大いに賞賛されているところですが、残念な出来事が全くないわけではありません。

 被災地での盗難、義捐金詐欺、生活必需品の買占め、「天罰」発言。特に盗難や詐欺は悪魔の所業としかいいようがないほど卑劣で許しがたく、ニュースを見るたびに怒りがこみ上げてきます。

 そうした残念な出来事の中で、ひとつだけ、当ブログで触れておきたいことがあります。東京電力や政府に向けて根拠に乏しい批判を浴びせることについてです。

 ネットを見ていると、中には無責任で感情任せとしかいいようがない、脅迫的な言辞を弄する人さえいます。「2ちゃんねる」は見ない主義なので詳しくは分かりませんが、一般のブログでもそうした書き込みが散見されます。

 批判は大いに結構。でも少なくとも現時点では、誰が悪いと断定するに足るだけの情報はいまだに出揃ってはいないのではないでしょうか。やり場のない怒りを何とかしたい気持ちは理解できますが、それと彼らにぶつけることとは別です。

 福島第一原発の現場では、一日でも早く事故を収束させようと、多くの作業員が気力と体力の限界に挑戦し、内外から賞賛されています。私も彼らの命がけの行動に感服している一人です。

 けれども戦っているのは何も彼らだけではなく、経営者を含めた現場以外の東電社員や政府関係者も同様ではないでしょうか。そこで線引きして、単純に善玉と悪玉とに色分けすることにも疑問を感じます。

 東電や政府が悪くないと言い切るつもりはありません。詳しい検証が行われ、責任の所在が明らかになるのはあくまでこれからであって、誰が悪いと決めつけるのは早計だと言いたいのです。責任の所在が曖昧だったかどうかを含めて。

 ましてや、脅迫的な言葉を書き連ねる行為には全く同意できません。

 私自身はわずかな義捐金を提供することぐらいしかできない、ちっぽけな存在にすぎず、どれほど復興の役に立てるのかは分かりません。けれども自分なりに現実を直視し、被災者や周囲の人たちと艱難辛苦を分かち合っていきたいと思っています。

 そして、それが正しいか否かはさておき、何が正しく、何が間違っているかを考える姿勢は持ち続けていたいと思っています。結論が違っていてもかまいませんので、私と同様、少しでも考えていただければ幸いです。

 今回ブログを再開するにあたっても、やめるという選択肢を含め、どうすべきかいろいろ考えました。その結果として、次回以降は通常営業に戻るべきとの結論に至りました。節電など一部の例外を除き、ふだん通りに行動することが最も復興の手助けになる、と。

  もともと興味を持っていたテーマなので、人の死や地震について取り上げ、不快に思われることがあるかもしれません。が、基本的にはいつものように、興味本位もしくは軽いノリでいくつもりです。

 そうした当方の考えやスタンスをご理解いただいた上で、今後とも当ブログにお付き合いいただければ幸いです。


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観音像 [歴史]

 二十歳ぐらいの青年が、慰霊碑の前で神妙な面持ちをして手を合わせている。ここに来て10分足らずでもう2人目だ。

 渋谷駅のハチ公口を右手に出て、公園通りと呼ぶやや急な坂道を登ると、10分ほどでNHK放送センターに行き着く。片側2車線の道路を隔てた反対側には渋谷税務署(法務局)があり、その西北角に慰霊碑が建てられている。2・26事件を起こした青年将校らの遺族会「仏心会」が、昭和40年に建立したものだ。

 「午前中は車が2台とまっていました。遺族会の関係者だと思います」

 NHKの警備員が教えてくれた。

 花や菓子が捧げられ、大きな台座の上に観音像が立っている。5メートル以上あるだろうか。かなりの高さだ。反乱将校の真意を知ってほしいという、遺族の祈りに似た思いを感じさせる。それだけ多くの支持者がいて、義捐金に恵まれたのかもしれない。

 この日を遡ること75年、昭和11年2月26日の未明に幕を開けたこの事件は、帝都を大混乱に陥れたものの、29日には早くも収束した。昭和維新の断行を求めた反乱将校たちは、寵臣を殺されたことに怒り、早期鎮圧を命じた天皇に弓を引くだけの不敵さは持ち合わせていなかった。結局はそこがつけめになった。29日の夕刻には囚人護送車に乗せられ、陸軍の東京衛戍刑務所へと送られている。

 慰霊碑が建っているのは、その跡地である。

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 このあたりは渋谷の繁華街と代々木公園を往来する人でつねに賑わっている。法務局の東隣には、かつて渋谷公会堂と呼ばれていたCCレモンホールがあり、コンサートが開かれるたびに多くの若者でごった返す。慰霊碑の周囲は人通りが比較的少ないが、どこか場違いな印象はぬぐえない。

 事件当時は人が行き交う場所ではなかった。刑務所は、法務局やCCレモンホールだけでなく、法務局の裏手にある渋谷区役所や神南小学校を含む広大な土地を占有していた。NHKや代々木公園は演習場として使われていた。 

 演習場は戦後、米軍に接収され、米軍関係者の宿舎がいくつも建てられた。刑務所跡地は車輌の整備施設となった。それらが返還されるのは東京五輪後のことである。変化の激しい東京を象徴する場所といっていい。

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 2・26事件そのものはわずか4日間の出来事にすぎなかったが、反乱将校が衛戍刑務所に収監された期間は夏までの半年に及んだ。そして、彼らのうち民間人4人を含む19人が死刑判決を受け、この地で銃殺された。

 事件後のことで、しかも断片的な情報しか漏れ伝わっていないせいか、刑務所での彼らの動静に的を絞った本はほとんど存在しない。

 だがこの半年間、特に死刑執行直前の数日間は、日本を震撼させた4日間に勝るとも劣らない人間ドラマが展開された。

 関係者の回想を総合すると、刑務所には数棟の監房が並行して建てられていた。昔ながらの牢屋造りで、日本橋の小伝馬町にあった江戸時代からの牢屋を移築した建物もあった。一棟に約10畳の独房が十数個あり、房の両側は太い木製の格子で仕切られ、さらにその外側をコンクリートの廊下が挟んでいた、という。

 外からは、透明なガラス窓を透かして独房内部をうかがうことができた。建物の間隔は15メートルほど。このため収監者は両隣の建物にいる別の収監者を見、ジェスチャーでコミュニケーションすることがかろうじてできた。

 7月5日に開かれた軍法会議で判決が下ると、死刑になった者はひとつの建物(第五拘置監)に移された。遺族らと面会し、最後の別れを告げることも許された。

 5・15事件の処分が軽かったため、反乱将校の中には軽い刑で済むか、恩赦によって軽減されると期待する向きがあったとの見方がある。その真偽はともかく、19人という数が彼らの予想を超えていたのは確かだろう。中には心の準備ができておらず、衝撃をもって判決を受け止めた者もいたに違いない。

 それでも軍人の面目躍如というべきか、大半は普段どおり落ち着いていたようだ。

 執行前日の11日、彼らは3人1組で外での入浴を許された。彼らの先輩格にあたり、事件に連座して禁固4年の刑を受け、隣の建物に収監されていた大蔵栄一大尉は、入浴の際に対馬勝雄中尉がこちらに気づき、ニッコリ笑って右手を振ったと書き残している。

 正確な時刻は不明だが、翌日の執行は夕方には認識されていたとみられる。無期禁固の判決を受けて生き残った池田俊彦少尉は、夕方から隣の建物がざわつき始め、彼らが大声で話していたと振り返っている。最後の夜ということで、私語が許されたのだろう。

 大蔵大尉の房からは、中橋基明中尉の姿が垣間見えた。中橋が高橋是清蔵相を殺害したことは前にこのブログで触れた。中橋は、緋色の裏地をした派手な軍服のコートを着てダンスホールに通う、およそ軍人らしくない伊達者で、人間味にあふれた性格の持ち主だったといわれる。彼は大蔵大尉に向けてリンゴを振ったり、タバコの煙をふかしたりして、「どうだ、ほしいだろう」という風な、茶目っ気たっぷりの動作をしてみせた。

 軍歌を唄う者、詩を吟ずる者、読経する者、さまざまだった。事件を主導し、首相官邸を襲撃した栗原康秀中尉が「川中島」を吟じると、中橋が「栗ッ、貴様は何をやってもへたくそだが、いまの詩吟だけはうまかったぞ!」と、彼らしい優しさで声をかけた。

 話し声は夜更けまで続いた。眠る者はいなかった。明け方近くになると、君が代を斉唱する声が聞こえ始めた。最年長の香田清貞大尉が言い出したことだった。歌い終えると、天皇陛下万歳が三唱された。

 香田は万歳を呼びかける前にこう言ったという。

 「みんな聞いてくれ!殺されたら血だらけのまま陛下の元へ集まり、それから行き先を決めようじゃないか!」

 それを聞いた全員が、「そうしよう!」と口々に言い合った。

 いよいよ執行の時が迫ってきた。午前5時40分。真崎甚三郎裁判の証人となり、執行が翌年夏に延ばされた北一輝ら4人をのぞく15人が各々の房で軍医の検診を受けた。心身に異常がないか確かめるためである。

 そして6時40分ごろ、まず栗原ら第一班の5人が1人ずつ呼び出され、生き残った者たちの涙声の声援に送られながら拘置監を出ていった。栗原は「おじさ~ん」と、声を振り絞るように叫んだ。彼らを支援して逮捕され、隣の建物に収監されている予備役少将の齋藤瀏に向けたものだった。齋藤は栗原の父親である栗原勇大佐と親しく、両家は家族ぐるみの付き合いをしていた。栗原は齋藤の娘で歌人の齋藤史さんから「クリコ」と渾名で呼ばれていた。

 看守長と看守がつきそい、各自6歩の距離を保ちながら刑執行言渡所へ向かった。ここで所長が氏名を点検した後、執行する旨を告げ、遺言を聞き、遺書の始末などを聞きただした。

 あとは刑場で銃弾を浴びるだけである。

 所長の塚本定吉が書いた手記によると、彼らの態度はこの期に至ってもなお落ち着き払っていたというが、どうか。死刑を目の前にしているのだから、興奮状態になり、取り乱していたとしてもおかしくはない。

 それ以上に、初志を貫徹できなかったことへの悔しさや、自分たちを受け入れなかった天皇に対する怨念のような気持ちを処理しきれない者もいたのではないか。関係者が気遣って、そうした話は表には出さなかった可能性もある。一部の者が取り乱していたと記した本を読んだ記憶があるが、ちょっと思い出せない。

 よく晴れた、夏らしい日だった。早朝には靄が立ち込めていたという。

 処刑には100人あまりが立ち会った。刑場は構内の西北隅に作られ、煉瓦米を背に5つの壕が掘られた。おそらくそれは慰霊塔のすぐそば、税務署の玄関付近だったろう。

 それぞれの壕には十字架が据え付けられ、彼らはそこに体を縛り付けられ、そして地面にひざまずいた。顔面から腹まで白い布で覆われ、眉間の部分には狙撃手が撃ち損じないよう、黒い印がつけられた。

 全員が天皇陛下万歳を叫んだ。安藤輝三大尉だけは「秩父宮万歳」と付け加えたとされる。安藤が秩父宮と近い関係にあったことはよく知られている。ただ、栗原がそう叫んだとする主張もあり、作家の保阪正康氏はそれを裏付ける信憑性の高い証言を得ている。

 狙撃手は2人ずつ、10人がついた。そのうち1人が額に照準を合わせ、もう一人は撃ち損じた場合に備えて心臓を狙っていた。

 狙撃手にとっても重苦しい、つらい瞬間だった。同じ陸軍軍人どうし、しかも一部の者は顔見知りだったからである。

 練兵場の方からは、小銃や機関銃の音がひっきりなしに聞こえてくる。刑の執行を知らせないためのカモフラージュといわれる。そして―。

 ダダダダッ

 遠くから見守っていた他の受刑者たちは、空砲とは明らかに違う音が意味するものを即座に悟った。 

 処刑は7時、7時45分、8時30分と3回に分けて行われた。

 たいていの者は一発で即死したが、死に切れない者もいた。栗原は2発、中橋は3発の銃弾を浴びている。

 まったくの憶測だが、秩父宮万歳を叫んだのはやはり栗原で、叫びつつ銃弾を浴びたのかもしれない。齋藤瀏は、「栗原死すとも維新は死せず」とも叫んだと、聞き知った事実を書き残している。

 遺骸について、父親の勇がこう書いている。

 「…眉間に凄惨なる一点の弾痕、眼を開き、歯を食い締りたる無念の形相、肉親縁者として誰かは泣かざる者がありませう。一度に悲鳴の声が起こりました。この様な悲劇の場面は恐く十五人の遺族に次々と繰返されたことでありませう」

 法医学に暗い私には、彼があえて目を開いていたのか、それとも撃たれると自然にそうなるのか、よく分からない。一緒に処刑された民間人の渋川善助も目が半開きの状態だったという。目を閉じないものなのかもしれない。 

 ただ、そのような凄まじい形相からして、反乱将校の中でも一、二を争う急進派だった栗原らしい、壮絶な最期だったとはいえるだろう。

 彼と並ぶ急進派で、理論面でも事件を主導した磯部浅一は、その約1年後の8月19日に死んだ。磯部は膨大な手記を残し、その中で凄まじいほどの怨念をぶちまけ、昭和天皇を叱ることさえしている。が、北らとともに処刑された時の態度については、「天皇陛下万歳」を叫ばなかったこと以外、ほとんど情報が伝わっていない。

 彼もまた怨念を抑えきれず、カッと目を見開いていたのかもしれない。

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 20世紀以降、第二次大戦の戦犯処刑を除き、日本でこれほど多くの人間が死刑に処された例はない。それは幸いというべきだろう。

 一方で、最後の出来事であるが故に、反乱将校の存在はいまだ多くの人々の記憶に留まり続けている面もあるかと思える。

 慰霊碑の前でたたずんでいた青年は、しばらく観音像を眺めた後、やがて代々木公園から渋谷駅に向かう人波の中へと消えていった。それと入れ違うようにして、今度は70歳くらいの老紳士がやってきた。老紳士はおもむろに持っていたライターで線香に火をつけ、両手をすり合わせた。どうか成仏してください―。まるでそう言っているかのように、喧騒をよそに祈りながら何事かをつぶやいている。
 


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ノスタルジック2デイズへ [車]

 ●今年に入りガッカリしたこと→ポテチのフレンチサラダ味を扱うコンビニが近くになくなったこと
 ●今年に入りうれしかったこと→ポテチのフレンチサラダ味を近くの100円ショップで再発見したこと
 ●今年に入り落ち込んだこと→ポテチのフレンチサラダ味を大量に買い込み、山の神にえらく叱られたこと
 ●今年に入り腹が立ったこと→ポテチのフレンチサラダ味を買い込んだのに、買ってくるなと怒ったはずの山の神に大半を消費されたこと
                                  

 とまあ、緊迫する中東情勢をよそに暢気な日々を送っております。

 仕事のほうは相変わらずで、3月1日から担当替えとなり、オフィスの場所も変わるので、さらに忙しくなる気配。まあ、もはや悟りの境地に達しているので何とかなるっしょ。 

 それより気になるのは、この1年半を共に戦ってきた後輩クンのことです。彼は当方と違って素直で心優しく、みんなから好かれる人で、その点はまったく心配していないんですが…何せ酒好き&酒乱で、何と合コンの場で放尿してしまうという、とんでもない武勇伝?の持ち主。その上、31にもなって貯金はおろか、けっこうな借金を抱える身。生き急いでいるといえば聞こえはいいのですが。そんな彼を救ってあげたいという、ボランティア精神に満ちあふれたステキな資産家の女性を大募集中です!

 あっ、ちなみに彼は自他共に認めるロリコン野郎です。。。

 それはさておき、横浜市のパシフィコ横浜で開催されている「ノスタルジック2デイズ」を見てきました。

 今年は、4月初めの開催だった前年からややスケジュールを繰り上げての開催となりました。

 正直、花粉シーズン真っただ中なのと、「前回と同じ内容かな~」との思いがあり、行くのを少しばかりためらっておりました。でもいざ着いてみると出展車の顔ぶれはかなり違っていて、昨年にも増して満足度大でした。

 いつもより時間をかけて撮影し、載せきれないので残りはみんカラの「フォトギャラリー」にアップしておきます。今日行かれるという方はネタバレになるのでスルーしてください。

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 まずは欲しいクルマから。お馴染みフェアレディZです。この個体は前にも取り上げたかもしれません。

 スポーツカーとはいえ、小回りが利くタイプではなく、GTカーに近い味付けは必ずしも好みとはいえません。ですが、やはりこの容姿を眺めていると諸々のことはどうでもよくなります。

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 5000万円ぐらいするクセに消火器がないと怖くて乗れない車。それでも強盗しようかと思わせてしまう車。

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 「BP東京ノスタルジックカーショー」ではランチア・ストラトスのドンガラが出展されていましたが、このイベントではフェラーリ308の姿が。隣には黒の328もありました。

 最近は金ないクセに2台目が欲しくてたまらず…車探しと購入シミュレーションに余念がありません。現時点の候補は、

 ・フェラーリ308
 ・トヨタスポーツ800
 ・ポルシェ930ターボ
 ・初代もしくは2代目ソアラ(2代目ならパールツートンカラーの3・0GTリミテッド)
 ・初代フェアレディZ 

 特に308が無性に欲しい今日このごろ。この辺のクルマになると購入費用とは別に維持費が問題になるので、買うとはっきり決めていません…というか買えない可能性大ですが。どうせ人間いつかは死ぬんだし、買うチャンスがわずかでもあればトライした方が後悔しないかも。後輩クンに影響されたかな?

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 お次は当ブログの新顔。いすゞピアッツアです。バタ臭い日本車という意味ではアルシオーネSVXと双璧をなすクルマ、かな。子供のころに乗ったことがありますが、後部座席から眺める運転席が未来的で、特にハンドルの右側についているスイッチに心を揺さぶられたのを憶えています。

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 スカイラインジャパン。どちらかというと丸目の方が好きです。昔はケンメリとR30に狭まれた地味なモデルという印象でした。あらためて見ると適度に抑制が効いていて、何気にいいデザインしています。丸テールはジャパンのものが最も好きです。

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 今回は魅力的な色のクルマが本当に多かった。これは1970年式クラウン。エンジンは1JZにスワップされていました。

 ちょっと分かりにくいですが、やや薄めのモスグリーンがいい味出しています。こういう色、個人的にはすごく好きなんですけど、売れないのかあまり商品化されませんね。最近だとティアナぐらいかな?それも黒や青が多くてモスグリーンは滅多に見ません。

 いつだったか、「ノスタルジックヒーロー」に掲載されたモスグリーンのクジラクラウンを生で見たいのですが。

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 アルピナ。B6かB7かよく分かりません。このカラーリングを見るのは初めて。どういう由来があるのかな?

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 色だけじゃなく程度も極上で、まさに完ペキだった117クーペ。しかも大好きなワイヤーホイールで車体サイズも絶妙。117って意外と安いんだよな~

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 何といってもこのリアがいいですよね。シックなスーツに身を固めていても乗れるスポーティーなクルマ。これこそがクーペだと思います。

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 今回はノーマルのおばあちゃんが1台(といっても輸出仕様!でしたが)と、この2台。こちらは元気いっぱいのおばあちゃんです。

 さて、最後の1台はやはりニーマル、それもエアロキャビンです。

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 みん友さんのブログや雑誌ですでに存じ上げておりましたが素晴らしい状態です。

 エアロキャビン、一度でいいから表参道あたりで屋根をオープンさせてみたい。きっと大人も子供も外人さんもガン見でしょうね(笑

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 このピッカピカのBBSにはやられました。やっぱ本物のBBSにしたい。。。

 いや~、すっかり目の保養になりました。オーナー様に感謝。これで気持ちよく新生活に突入できそうです。


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