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観音像 [歴史]

 二十歳ぐらいの青年が、慰霊碑の前で神妙な面持ちをして手を合わせている。ここに来て10分足らずでもう2人目だ。

 渋谷駅のハチ公口を右手に出て、公園通りと呼ぶやや急な坂道を登ると、10分ほどでNHK放送センターに行き着く。片側2車線の道路を隔てた反対側には渋谷税務署(法務局)があり、その西北角に慰霊碑が建てられている。2・26事件を起こした青年将校らの遺族会「仏心会」が、昭和40年に建立したものだ。

 「午前中は車が2台とまっていました。遺族会の関係者だと思います」

 NHKの警備員が教えてくれた。

 花や菓子が捧げられ、大きな台座の上に観音像が立っている。5メートル以上あるだろうか。かなりの高さだ。反乱将校の真意を知ってほしいという、遺族の祈りに似た思いを感じさせる。それだけ多くの支持者がいて、義捐金に恵まれたのかもしれない。

 この日を遡ること75年、昭和11年2月26日の未明に幕を開けたこの事件は、帝都を大混乱に陥れたものの、29日には早くも収束した。昭和維新の断行を求めた反乱将校たちは、寵臣を殺されたことに怒り、早期鎮圧を命じた天皇に弓を引くだけの不敵さは持ち合わせていなかった。結局はそこがつけめになった。29日の夕刻には囚人護送車に乗せられ、陸軍の東京衛戍刑務所へと送られている。

 慰霊碑が建っているのは、その跡地である。

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 このあたりは渋谷の繁華街と代々木公園を往来する人でつねに賑わっている。法務局の東隣には、かつて渋谷公会堂と呼ばれていたCCレモンホールがあり、コンサートが開かれるたびに多くの若者でごった返す。慰霊碑の周囲は人通りが比較的少ないが、どこか場違いな印象はぬぐえない。

 事件当時は人が行き交う場所ではなかった。刑務所は、法務局やCCレモンホールだけでなく、法務局の裏手にある渋谷区役所や神南小学校を含む広大な土地を占有していた。NHKや代々木公園は演習場として使われていた。 

 演習場は戦後、米軍に接収され、米軍関係者の宿舎がいくつも建てられた。刑務所跡地は車輌の整備施設となった。それらが返還されるのは東京五輪後のことである。変化の激しい東京を象徴する場所といっていい。

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 2・26事件そのものはわずか4日間の出来事にすぎなかったが、反乱将校が衛戍刑務所に収監された期間は夏までの半年に及んだ。そして、彼らのうち民間人4人を含む19人が死刑判決を受け、この地で銃殺された。

 事件後のことで、しかも断片的な情報しか漏れ伝わっていないせいか、刑務所での彼らの動静に的を絞った本はほとんど存在しない。

 だがこの半年間、特に死刑執行直前の数日間は、日本を震撼させた4日間に勝るとも劣らない人間ドラマが展開された。

 関係者の回想を総合すると、刑務所には数棟の監房が並行して建てられていた。昔ながらの牢屋造りで、日本橋の小伝馬町にあった江戸時代からの牢屋を移築した建物もあった。一棟に約10畳の独房が十数個あり、房の両側は太い木製の格子で仕切られ、さらにその外側をコンクリートの廊下が挟んでいた、という。

 外からは、透明なガラス窓を透かして独房内部をうかがうことができた。建物の間隔は15メートルほど。このため収監者は両隣の建物にいる別の収監者を見、ジェスチャーでコミュニケーションすることがかろうじてできた。

 7月5日に開かれた軍法会議で判決が下ると、死刑になった者はひとつの建物(第五拘置監)に移された。遺族らと面会し、最後の別れを告げることも許された。

 5・15事件の処分が軽かったため、反乱将校の中には軽い刑で済むか、恩赦によって軽減されると期待する向きがあったとの見方がある。その真偽はともかく、19人という数が彼らの予想を超えていたのは確かだろう。中には心の準備ができておらず、衝撃をもって判決を受け止めた者もいたに違いない。

 それでも軍人の面目躍如というべきか、大半は普段どおり落ち着いていたようだ。

 執行前日の11日、彼らは3人1組で外での入浴を許された。彼らの先輩格にあたり、事件に連座して禁固4年の刑を受け、隣の建物に収監されていた大蔵栄一大尉は、入浴の際に対馬勝雄中尉がこちらに気づき、ニッコリ笑って右手を振ったと書き残している。

 正確な時刻は不明だが、翌日の執行は夕方には認識されていたとみられる。無期禁固の判決を受けて生き残った池田俊彦少尉は、夕方から隣の建物がざわつき始め、彼らが大声で話していたと振り返っている。最後の夜ということで、私語が許されたのだろう。

 大蔵大尉の房からは、中橋基明中尉の姿が垣間見えた。中橋が高橋是清蔵相を殺害したことは前にこのブログで触れた。中橋は、緋色の裏地をした派手な軍服のコートを着てダンスホールに通う、およそ軍人らしくない伊達者で、人間味にあふれた性格の持ち主だったといわれる。彼は大蔵大尉に向けてリンゴを振ったり、タバコの煙をふかしたりして、「どうだ、ほしいだろう」という風な、茶目っ気たっぷりの動作をしてみせた。

 軍歌を唄う者、詩を吟ずる者、読経する者、さまざまだった。事件を主導し、首相官邸を襲撃した栗原康秀中尉が「川中島」を吟じると、中橋が「栗ッ、貴様は何をやってもへたくそだが、いまの詩吟だけはうまかったぞ!」と、彼らしい優しさで声をかけた。

 話し声は夜更けまで続いた。眠る者はいなかった。明け方近くになると、君が代を斉唱する声が聞こえ始めた。最年長の香田清貞大尉が言い出したことだった。歌い終えると、天皇陛下万歳が三唱された。

 香田は万歳を呼びかける前にこう言ったという。

 「みんな聞いてくれ!殺されたら血だらけのまま陛下の元へ集まり、それから行き先を決めようじゃないか!」

 それを聞いた全員が、「そうしよう!」と口々に言い合った。

 いよいよ執行の時が迫ってきた。午前5時40分。真崎甚三郎裁判の証人となり、執行が翌年夏に延ばされた北一輝ら4人をのぞく15人が各々の房で軍医の検診を受けた。心身に異常がないか確かめるためである。

 そして6時40分ごろ、まず栗原ら第一班の5人が1人ずつ呼び出され、生き残った者たちの涙声の声援に送られながら拘置監を出ていった。栗原は「おじさ~ん」と、声を振り絞るように叫んだ。彼らを支援して逮捕され、隣の建物に収監されている予備役少将の齋藤瀏に向けたものだった。齋藤は栗原の父親である栗原勇大佐と親しく、両家は家族ぐるみの付き合いをしていた。栗原は齋藤の娘で歌人の齋藤史さんから「クリコ」と渾名で呼ばれていた。

 看守長と看守がつきそい、各自6歩の距離を保ちながら刑執行言渡所へ向かった。ここで所長が氏名を点検した後、執行する旨を告げ、遺言を聞き、遺書の始末などを聞きただした。

 あとは刑場で銃弾を浴びるだけである。

 所長の塚本定吉が書いた手記によると、彼らの態度はこの期に至ってもなお落ち着き払っていたというが、どうか。死刑を目の前にしているのだから、興奮状態になり、取り乱していたとしてもおかしくはない。

 それ以上に、初志を貫徹できなかったことへの悔しさや、自分たちを受け入れなかった天皇に対する怨念のような気持ちを処理しきれない者もいたのではないか。関係者が気遣って、そうした話は表には出さなかった可能性もある。一部の者が取り乱していたと記した本を読んだ記憶があるが、ちょっと思い出せない。

 よく晴れた、夏らしい日だった。早朝には靄が立ち込めていたという。

 処刑には100人あまりが立ち会った。刑場は構内の西北隅に作られ、煉瓦米を背に5つの壕が掘られた。おそらくそれは慰霊塔のすぐそば、税務署の玄関付近だったろう。

 それぞれの壕には十字架が据え付けられ、彼らはそこに体を縛り付けられ、そして地面にひざまずいた。顔面から腹まで白い布で覆われ、眉間の部分には狙撃手が撃ち損じないよう、黒い印がつけられた。

 全員が天皇陛下万歳を叫んだ。安藤輝三大尉だけは「秩父宮万歳」と付け加えたとされる。安藤が秩父宮と近い関係にあったことはよく知られている。ただ、栗原がそう叫んだとする主張もあり、作家の保阪正康氏はそれを裏付ける信憑性の高い証言を得ている。

 狙撃手は2人ずつ、10人がついた。そのうち1人が額に照準を合わせ、もう一人は撃ち損じた場合に備えて心臓を狙っていた。

 狙撃手にとっても重苦しい、つらい瞬間だった。同じ陸軍軍人どうし、しかも一部の者は顔見知りだったからである。

 練兵場の方からは、小銃や機関銃の音がひっきりなしに聞こえてくる。刑の執行を知らせないためのカモフラージュといわれる。そして―。

 ダダダダッ

 遠くから見守っていた他の受刑者たちは、空砲とは明らかに違う音が意味するものを即座に悟った。 

 処刑は7時、7時45分、8時30分と3回に分けて行われた。

 たいていの者は一発で即死したが、死に切れない者もいた。栗原は2発、中橋は3発の銃弾を浴びている。

 まったくの憶測だが、秩父宮万歳を叫んだのはやはり栗原で、叫びつつ銃弾を浴びたのかもしれない。齋藤瀏は、「栗原死すとも維新は死せず」とも叫んだと、聞き知った事実を書き残している。

 遺骸について、父親の勇がこう書いている。

 「…眉間に凄惨なる一点の弾痕、眼を開き、歯を食い締りたる無念の形相、肉親縁者として誰かは泣かざる者がありませう。一度に悲鳴の声が起こりました。この様な悲劇の場面は恐く十五人の遺族に次々と繰返されたことでありませう」

 法医学に暗い私には、彼があえて目を開いていたのか、それとも撃たれると自然にそうなるのか、よく分からない。一緒に処刑された民間人の渋川善助も目が半開きの状態だったという。目を閉じないものなのかもしれない。 

 ただ、そのような凄まじい形相からして、反乱将校の中でも一、二を争う急進派だった栗原らしい、壮絶な最期だったとはいえるだろう。

 彼と並ぶ急進派で、理論面でも事件を主導した磯部浅一は、その約1年後の8月19日に死んだ。磯部は膨大な手記を残し、その中で凄まじいほどの怨念をぶちまけ、昭和天皇を叱ることさえしている。が、北らとともに処刑された時の態度については、「天皇陛下万歳」を叫ばなかったこと以外、ほとんど情報が伝わっていない。

 彼もまた怨念を抑えきれず、カッと目を見開いていたのかもしれない。

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 20世紀以降、第二次大戦の戦犯処刑を除き、日本でこれほど多くの人間が死刑に処された例はない。それは幸いというべきだろう。

 一方で、最後の出来事であるが故に、反乱将校の存在はいまだ多くの人々の記憶に留まり続けている面もあるかと思える。

 慰霊碑の前でたたずんでいた青年は、しばらく観音像を眺めた後、やがて代々木公園から渋谷駅に向かう人波の中へと消えていった。それと入れ違うようにして、今度は70歳くらいの老紳士がやってきた。老紳士はおもむろに持っていたライターで線香に火をつけ、両手をすり合わせた。どうか成仏してください―。まるでそう言っているかのように、喧騒をよそに祈りながら何事かをつぶやいている。
 


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