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「明治ミスコン事件」異聞 [歴史]

 明治憲法が施行された明治23年(1890年)は、東京・浅草に凌雲閣が完成した年でもある。俗に「浅草十二階」と呼ばれたこの建物は高さ52メートル。完成当時は日本初の高層建築物として東京中の話題をさらった。

 この建物にはもう一つ、「日本初」に絡んだ話がある。日本で初めての美人コンテストがここで行われたのだ。

 開業翌年に行われ、「東京百美人」と銘打ったこのミスコンは、有名写真家の小川一真が撮影した女性の写真を各階の壁に貼り、一般客に投票してもらうというものだった。イベントは主催者の狙い通り、大盛況だったらしい。

 ただ、この時は芸者などの「くろうと」が対象。一般女性を対象にしたミスコンは、時事新報社が明治41年(1908年)に行った「深窓令嬢美人コンクール」が最初だ。このため、こちらの方を日本初のミスコンとみなす向きもある。今回はこちらの話を取り上げたい。

 このミスコン、もともと米国のシカゴ・トリビューン社が企画し、各国に応募を呼びかけた話に時事新報社が乗ったことから行われた。

 応募者は7000人に及び、彫刻家の高村光雲らが審査にあたった結果、末弘ヒロ子という、学習院に通う16歳の女学生が一等に選ばれた。

ブログ・末弘ヒロ子.jpg
                           

 現代でも十分に通用する可憐な乙女を見て、新聞読者の誰もが一等に選ばれたことを納得した。

 ところが、ここにきて思わぬトラブルが持ち上がる。学習院が、「学校の対面を汚す」として、ヒロ子を放校処分にしたのである。当時の学習院長は、あの乃木希典だった。

 そもそもヒロ子は自ら応募したわけではなかった。写真店の店主だった義兄が写真を勝手に送ったのだ。それなのに放校処分という不名誉を蒙ってしまったのだから、泣くに泣けなかったろう。
 
 時事新報社は厳しい処分を科した学習院に猛然と抗議し、新聞紙面上で大々的に批判を展開した。他の新聞も彼女に同情し、それにならった。
 
 中でも大阪毎日新聞の舌鋒は鋭かった。同紙は追放の背景に他の女性徒の嫉妬があったと断定的に指摘。「心の腐った女子を矯正することを急務とせねばならぬ」とまで書いている。そうした事実があったかどうかは不明で、おそらく他の女性徒からすれば、とばっちりとしかいいようのない事だったに違いない。

 記事ではさらにこう弁護している。

 「学習院の女学部から日本一の美人を出したといふのは、尚近衛の兵営に日本一の偉大なる体格の兵士が居るといふと、一般で寧ろ秀英を集めた点において誇るべき事である」
 
 軍人である乃木への皮肉を込めてそう書いたのだろうが、兵士と美人を同列に扱うその視点が面白い。

 乃木はその後、ヒロ子が自分から応募したのではなかったと知り後悔した。そしていわば罪滅ぼしとして、ヒロ子を野津道貫(陸軍元帥、侯爵)の息子、鎮之助に娶せたという。結婚直前に道貫は死去し、彼女は一躍、侯爵夫人となった。

 これが世に言う、「明治ミスコン事件」の顛末である。

 この事件は今も時たまテレビで取り上げられ、かなり知られている。「名門校の面汚し」とされ、肩身の狭い思いを強いられた女性が玉の輿に乗るというシンデレラストーリーは、時代を超えて心和ませるものがある。

 ところが真相はやや違うようだ。

 末弘ヒロ子は華族ではなかったもののれっきとしたお嬢様で、父親の末弘直方は小倉市長を務め、家はかなり裕福だった。平民の入学も許されていたとはいえ、そんな出自でなければ学習院には入らないだろう。

 さらに末弘直方は薩摩の出で、同郷の野津道貫とは親密な間柄にあった。両家は家族ぐるみで交際し、鎮之助とヒロ子は幼少時から結婚の内約があったという。

 二人の結婚は道貫が病気で倒れた後、死去する間の1908年10月6日に行われている。

 「乃木が罪滅ぼしのためにヒロ子を野津家に嫁がせようとしたのだとしたら、野津家の人々は道貫が重病の最中に結婚式を挙げるだろうか」

 ノンフィクション作家の黒岩比佐子さんは鋭い指摘をしている。どうやら乃木将軍が二人を娶せたといいうのは、乃木という英雄につきまとう神話の一つにすぎないようだ。

 ヒロ子を追い出した〝犯人〟も乃木ではなく、強硬に放校を主張したのは別の人物だったらしい。学習院に軍隊風の教育を持ち込もうとした乃木だが、この時は賛成も反対もしなかったとされる。

 ヒロ子のその後の人生についてはよく分からない。だが無事〝許嫁〟と結ばれたのだから、ひとまずめでたい話とはいえるだろう。

 ちなみにこのミスコン、7000人もの応募があったと書いたが、実際は水増しに近いものだった。ミスコンという、「得体の知れないもの」に積極的に応じる女性はまだ少なかった。賞品目当てもあっただろうが、地方新聞を巻き込みつつ本人や親を説得し、けっこう無理してかき集めたらしい。

 コンテストの翌年、河岡潮風という人がこう書いている。

 「大福餅の潰れた様な顔の令嬢やら、山本勘助を女にした様な年増迄続々と送つてくる。夫れをお定りの粗製用紙に印刷するから、尚更デコボコになつて、一時は不美人展覧会の様な始末。心ある士をして、『美人あるなし、天下に美人ある無し』と三嘆せしめた」

 何ともすさまじい罵倒ぶりである。こうなると逆に顔が見たくなる。

 実は、彼女たちの写真は今でもさして苦労せずに見ることができる。ポーラ研究所がまとめた「幕末・明治美人帖」(新人物文庫)に、一次審査を通過した214人の写真が収録されているのだ。

 ここでは写真の印象を述べることはあえてやめておく。ただ、彼女たちの相当数が自ら望んだわけでもないのに参加させられ、そのうえ後世の人間たちからも云々される立場になってしまったことに同情を禁じ得ない、とだけ書いておこう。


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