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メキシコへ渡ったサムライ [歴史]

 経済小説の開拓者として知られる城山三郎氏に、「望郷のとき~侍・イン・メキシコ」という、ちょっと毛色の変わった作品がある。前半は小説風、後半はルポルタージュ風の二部構成で、江戸時代初期にヌエバ・エスパーニャと呼ばれたメキシコへ渡り、現地に根を下ろした日本人の足跡を追い求める内容だ。読んだのがだいぶ昔なのでうろ覚えだが、アカプルコ周辺のある集落でサンダルを「ワラッチ(ワラジか?)」と呼んでいるとの逸話があり、興味をかき立てられたのを覚えている。

 1968年に出版されたこの作品では、日本人の移住を示す具体的な話はほとんど触れられていない。だがその後いくつか新資料が発見され、不完全ながらベールが取り除かれつつある。

 移住者が存在したこと自体は明白となっている。アステカ王国の元首長の子で修道士だった人物が書いた「チマルパインの日記」には、京都出身の商人とされる田中勝介が1610年に派遣された「田中使節団」のうち、3人がメキシコに残留したとある。伊達政宗が送り出し、3年後に日本を出発した「慶長遣欧使節」でも、使節団を率いた支倉常長がマニラから日本の息子に送った手紙で3人がとどまったとつづっている。この時には、ほかに数名が居残ったとみられている。

 日本生まれで現地の名を持つ者も数人が確認されており、「ルイス・デ・ベラスコ」「フアン・アントニオ」「ルイス・デ・エンシオ」「フアン・デ・パエス」などが知られる。大泉光一・青森中央学院大学教授が書いた「メキシコの大地に消えた侍たち」によると、前の2人は田中使節団で残留した3人のうちの誰からしい。2人ともヌエバ・エスパーニャの副王を務めたルイス・デ・ベラスコ侯爵に同行してスペインへ向かい、ベラスコはスペイン艦隊の船で事務長を務めるまで出世したが、その後は貧窮し、1622年5月に召使い1人を伴ってヌエバ・エスパーニャへ帰国した。フアン・アントニオはスペインに10年住んだ後、1624年2月に帰国許可を求め、支度金の支給を認められている。2人ともその後の消息は不明だ。

 一方、ルイス・デ・エンシオとフアン・デ・パエスについてはそれよりも詳しいことが分かっている。ルイス・デ・エンシオはフアン・デ・パエスの舅にあたる。

 1960年代半ば、前出の大泉氏はメキシコ第2の都市グアダラハラのメトロポリタン・カテドラル(大聖堂)に残された死者・埋葬台帳を調査した。その際に発見した文書には、「(1642年5月29日に)日本人アウグスティン・デ・ラ・クルスがグアダラハラのサント・ミゲル病院で亡くなり、遺言執行人に日本人ルイス・デ・エンシオが命じられた」と書かれてあった。同氏はその後、1980年になってグアダラハラの公文書館にある商事関係の契約書から、彼があるスペイン人との間で交わした小売業の共同経営に関する2枚の契約書を発見した。これらの契約書には、ルイス・デ・エンシオ自ら、「福地蔵人・る伊すていん志よ」および「るいす福地蔵人」と署名してあった。

 この契約書の存在は、ほぼ同時期にラテンアメリカ史の権威として知られるフランスのトマス・ガルボ博士も確認している。ただし、元スペイン大使でガルボ博士の研究に協力した林屋永吉氏は「グアダラハラを征服した日本人」(メルバ・ファルク・レジャス、エクトル・パラシオス著)に文章を寄せ、名前は「ソウエモン」あるいは「ヒョーエモン」であると説明している。

 ルイス・デ・エンシオは別の資料から1595年ごろの生まれとされ、1620年ごろに受洗してキリシタンになったとの記録も残っているようだ。移住後は小売業にたずさわり、ペニンスラール(スペイン生まれのスペイン人)やクリオーリョ(植民地生まれのスペイン人)ではないにもかかわらず、経済的成功を収めた。私生活では、スペイン人と原住民との間で生まれたメスティーソの女性と結婚。10人の子をもうけ、娘の一人はさきに触れたフアン・デ・パウロと結婚している。

 彼はどのような方法でメキシコへ渡ったのか。現時点では推測するしかない。

 有力視されているのは、慶長遣欧使節に加わったとする説だ。大泉氏は名字の福地から彼が侍で、奥州で勢威を張った葛西家の家老を務めた福地氏の一族であるとしている。林屋永吉氏も石巻港から60キロの距離にある福地村の出身ではないかと推察している。

 彼が武士か、裕福な家の出であったことは名前からもうかがえる。苗字を持つこと自体が上流階級に属する者の特権であったし、蔵人あるいは「衛門」の名も武士だった可能性を示す証拠になる。

 さらに彼は自分の名を仮名で書く際、「エンシオ」ではなく「インシオ」と記している。東北では「え」を「い」と発音することが多い。慶長遣欧使節の記録に彼らしき名は見あたらないが、この説には確かに信憑性がある。

 もちろん、他の方法が完全に排除されたわけではない。

 前に述べたように、慶長遣欧使節が日本を出発したのが1613年の10月。翌年1月末にアカプルコへ入港した。総勢180人のうち、日本人は140人あまりを占めていた。メキシコからは、支倉常長を含む一部だけが欧州へ向かっている。

 使節に参加した日本人は上陸後ほどなく数十人が受洗したという。欧州へ向かった人々は、支倉を除けばキリシタンだけで構成されていたようだ。とすれば、1620年ごろに受洗したルイス・デ・エンシオはどちらにも入らないことになる。

 ここである疑問が頭をもたげる。ルイス・デ・エンシオはなぜ1614年に到着してから6年も受洗しなかったのか。

 当時のメキシコは人種的にはわりかし寛容な社会が築かれていたが、生活となると話は別で、カトリック信者でなければ難しかった。キリシタンになることを拒絶し続けてきた彼なら支倉常長とともに帰国するか、他の参加者がそうしたように支倉を待たずに帰国するのが自然だ。

 あまり知られていないことだが、このころ日本からメキシコへ渡った使節は他にもある。1617年の初め、フランシスコ会のディエゴ・デ・サンタ・カタリーナ神父らを乗せ、日本から戻ってきた船がメキシコに到着している。カタリーナ神父は日本との国交樹立を目的に派遣され、交渉が不調に終わったために戻ってきたのである。仮にルイス・デ・エンシオが大阪の陣で浪人となり、一行に加わって渡ったとすれば、時間的な無理はなくなる。

 もしかしたら伊達政宗が慶長遣欧使節と同じように、彼をこの船で送り出したのかもしれない。そう解釈すれば、仙台藩士であっても矛盾しない。 

 このほかにも、彼がいったんマニラへ行き、そこから向かった可能性がある。

 1570年にわずか20数名だったマニラの在留邦人は、1595年には早くも1000人に達した。貿易に従事する者もいれば、流刑者もいた。その数は朱印船貿易の開始によってさらに増加。1606年にはマニラ在住の日本人が水夫の殺傷事件を機に暴動を起こしているが、この時には1500人を超えていたといわれる。

 日本人の増加と彼らの横暴ぶりに業を煮やしたスペイン側は、1608年7月に在留邦人の日本送還を命じるが、てんで効き目はなかった。キリシタンの取り締まり強化や大阪の陣による浪人の増加を背景に、1620年には3000人まで膨れあがった。こうした状況を考えれば、マニラ経由で向かった者がいても不思議はない。ルイス・デ・エンシオの義理の息子であるフアン・デ・パエスは大阪出身で1609年ごろの生まれとみられ、マニラを経由した一人である可能性が高いとされる。

 1610年代にはマニラ~メキシコ間を年に1度ガレオン船が往復し、船員として雇われた日本人もいたらしい。移住となると監視もきつく簡単ではなかったろうが、彼も義理の息子と同じルートを辿ったのかもしれない。

 晩年のルイス・デ・エンシオは事業に失敗し、妻の遺産まで食いつぶしている。それでもフアン・デ・バエスが彼以上の成功を収め、面倒を見ることができたので、けして不幸な人生ではなかったと想像される。

 ただ、異国で生き抜くことの難しさに直面し、弱気になることはあったのではないか。もはや帰ることのかなわぬ祖国を想い、人知れず涙する場面もあったろう。彼が亡くなったのは1666年、推定71歳であった。

 ポルトガル人が種子島に来航し、鉄砲をもたらしたとされるのは1543年。江戸幕府がポルトガル船の入港を禁じ、鎖国体制が事実上固まったのは1639年だ。この間100年に満たないが、海を渡り、異国の地に骨を埋めた日本人は相当数いたと思われる。大名の地位を捨ててマニラへ向かった高山右近もその一人だし、遠いところでは南米のペルーに奴隷として連れて行かれた日本人がいたことも分かっている。彼らもまた、望郷の念にかられる瞬間があったにちがいない。 


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お龍と人斬り半次郎 [歴史]

 歴史好きにもかかわらず、大河ドラマはほとんど見ないのですが、その恩恵に浴する出来事がありました。
  
 影響力のある大河ドラマは出版業界にとって一大イベント。特に昨年の「龍馬伝」は、坂本龍馬と福山雅治さんという、人気者どうしの取り合わせだったこともあり、いつも以上に関連本を目にしたように思います。
  
 おかげで、普通ならテーマが地味すぎて出版できないような本が書店に並んだり、高価すぎて手が出せなかった本が新書や文庫本として復活することも。今回、特にありがたかったのは、お龍の回想録が新書として出版されたことでした。

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         (お龍とされる写真ですが…最近は別人説が有力に) 
                     

 お龍さんもかなりの有名人ですから、回想録がとっくに出版されていてしかるべきはずなのに、なぜか今まで単行本すら存在していませんでした。龍馬ブームのおかげてそれが簡単に入手できるようになったのです。しかも新書で。「わが夫 坂本龍馬」(朝日選書)という本がそれです。
   
 戦国時代と並んで歴史ファンの多い幕末ですが、人気の割に日記や回想録といった一次資料の文庫本や新書は少ないように思います。有名どころだと田中光顕の回想録やアーネスト・サトウの日記、龍馬の手紙をまとめたものぐらいでしょうか。
     
 「わが夫 坂本龍馬」は回想をそのまま掲載しているわけではなく、「反魂香」や「千里駒後日譚」といった生前の聞き書きを集め、読者が理解しやすいよう、三人称を一人称にしたりして、整理し直したものです。それでも本人の性格や考え方がストレートに伝わってくる点、回想録と変わりません。
   
 正直言って、お龍の回想は一冊の本としては出版されていなかったとはいえ、さまざまな本で部分的に取り上げられているので、購入時はさほど期待していませんでした。買うのが遅れたのもそのためでした。けれども読み進めてみると、知らなかったエピソードがけっこうあり、目から鱗が落ちる思いでした。
    
 中でも面白かったのが、中村半次郎との出来事です。お龍が寺田屋で「お春」として働いていた時分というから、慶応元年ごろのことでしょう。何と、中村がお龍に関係を迫ったというのです。
    
 この日、仲間の薩摩藩士とともに寺田屋で泥酔した彼は、店の者が誰も酌をしないのに腹を立て、あたりかまわず皿を投げつけるなどして暴れていました。そこで「私が静めて参りましょう」と、彼のいる二階の部屋へ上がって行ったのがお龍。無言で彼のそばに座り、いきなり手酌で5杯、6杯と酒を飲み干すと、
    
 「暴れたってしょうがないじゃありませんか。つまりはあなたの器量を下げるばかりですよ。今夜は私がお相手をいたしますから、充分召し上がってください」
     
 とキツ~イ一言。気を呑まれた中村は言われるままに酒を酌み交わし、ついには酔い潰れてしまいました。
        
 ところがその夜更け。中村は女にしてやられた悔しさからか、はたまた器量良しのお龍を気に入ったのか、お龍の部屋に侵入するなり手を掴んで、
      
 「こら!貴様は今夜は俺の寝室へ来て寝ろ!」
      
 と脅し始めました。

 これに対し、気の強いお龍さんは一歩も退きません。龍馬の名を持ち出さずに、
         
 「冗談言っちゃいけませんよ。寺田屋のお春ですよ。宿場女郎とは違いますからねえ。人を見て法を説いてください」
    
 そう見事に啖呵を切ってみせたのでした。
       
 でもその瞬間、彼女が身に着けていた短刀が床にポトリ。それを見た中村は、
        
 「女のくせに短刀なぞを持っておるは怪しいぞ。よくよく取り調べる件があるから、俺といっしょに来い!」
       
 と激昂し、仲間がいる部屋へとお龍を引っ張り込みました。いよいよピンチです。

 ところが、結果的にこの短刀が彼女を救うことになります。

 二人がそのまま言い合いを続けていると、短刀を見て何か思い出したらしい仲間が慌てて中村の袖を引き、
         
 「ありぁ土州の坂本龍馬の妻だ。僕はこの短刀に見覚えがある。君、とんだことをしたなあ」
          
 と言ったから、さすがの中村も青ざめたことでしょう。翌日お龍をご馳走して、
         
 「どうか昨晩のことは坂本氏には内証にしてください」
         
 と平身低頭で頼み込んだとか。
              
 他愛のないエピソードといってしまえばそれまでですが、もしもこの件が広まれば中村は切腹させられていたかもしれません。そして、西南戦争の行方にも少なからず影響を及ぼしたのではないでしょうか。
         
 それにしても、人斬り半次郎に真っ向から立ち向かうとはお龍さん、強すぎです(^-^;)

*少しだけ表現を変更していますが、基本的な内容はこの通りです。


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「明治ミスコン事件」異聞 [歴史]

 明治憲法が施行された明治23年(1890年)は、東京・浅草に凌雲閣が完成した年でもある。俗に「浅草十二階」と呼ばれたこの建物は高さ52メートル。完成当時は日本初の高層建築物として東京中の話題をさらった。

 この建物にはもう一つ、「日本初」に絡んだ話がある。日本で初めての美人コンテストがここで行われたのだ。

 開業翌年に行われ、「東京百美人」と銘打ったこのミスコンは、有名写真家の小川一真が撮影した女性の写真を各階の壁に貼り、一般客に投票してもらうというものだった。イベントは主催者の狙い通り、大盛況だったらしい。

 ただ、この時は芸者などの「くろうと」が対象。一般女性を対象にしたミスコンは、時事新報社が明治41年(1908年)に行った「深窓令嬢美人コンクール」が最初だ。このため、こちらの方を日本初のミスコンとみなす向きもある。今回はこちらの話を取り上げたい。

 このミスコン、もともと米国のシカゴ・トリビューン社が企画し、各国に応募を呼びかけた話に時事新報社が乗ったことから行われた。

 応募者は7000人に及び、彫刻家の高村光雲らが審査にあたった結果、末弘ヒロ子という、学習院に通う16歳の女学生が一等に選ばれた。

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 現代でも十分に通用する可憐な乙女を見て、新聞読者の誰もが一等に選ばれたことを納得した。

 ところが、ここにきて思わぬトラブルが持ち上がる。学習院が、「学校の対面を汚す」として、ヒロ子を放校処分にしたのである。当時の学習院長は、あの乃木希典だった。

 そもそもヒロ子は自ら応募したわけではなかった。写真店の店主だった義兄が写真を勝手に送ったのだ。それなのに放校処分という不名誉を蒙ってしまったのだから、泣くに泣けなかったろう。
 
 時事新報社は厳しい処分を科した学習院に猛然と抗議し、新聞紙面上で大々的に批判を展開した。他の新聞も彼女に同情し、それにならった。
 
 中でも大阪毎日新聞の舌鋒は鋭かった。同紙は追放の背景に他の女性徒の嫉妬があったと断定的に指摘。「心の腐った女子を矯正することを急務とせねばならぬ」とまで書いている。そうした事実があったかどうかは不明で、おそらく他の女性徒からすれば、とばっちりとしかいいようのない事だったに違いない。

 記事ではさらにこう弁護している。

 「学習院の女学部から日本一の美人を出したといふのは、尚近衛の兵営に日本一の偉大なる体格の兵士が居るといふと、一般で寧ろ秀英を集めた点において誇るべき事である」
 
 軍人である乃木への皮肉を込めてそう書いたのだろうが、兵士と美人を同列に扱うその視点が面白い。

 乃木はその後、ヒロ子が自分から応募したのではなかったと知り後悔した。そしていわば罪滅ぼしとして、ヒロ子を野津道貫(陸軍元帥、侯爵)の息子、鎮之助に娶せたという。結婚直前に道貫は死去し、彼女は一躍、侯爵夫人となった。

 これが世に言う、「明治ミスコン事件」の顛末である。

 この事件は今も時たまテレビで取り上げられ、かなり知られている。「名門校の面汚し」とされ、肩身の狭い思いを強いられた女性が玉の輿に乗るというシンデレラストーリーは、時代を超えて心和ませるものがある。

 ところが真相はやや違うようだ。

 末弘ヒロ子は華族ではなかったもののれっきとしたお嬢様で、父親の末弘直方は小倉市長を務め、家はかなり裕福だった。平民の入学も許されていたとはいえ、そんな出自でなければ学習院には入らないだろう。

 さらに末弘直方は薩摩の出で、同郷の野津道貫とは親密な間柄にあった。両家は家族ぐるみで交際し、鎮之助とヒロ子は幼少時から結婚の内約があったという。

 二人の結婚は道貫が病気で倒れた後、死去する間の1908年10月6日に行われている。

 「乃木が罪滅ぼしのためにヒロ子を野津家に嫁がせようとしたのだとしたら、野津家の人々は道貫が重病の最中に結婚式を挙げるだろうか」

 ノンフィクション作家の黒岩比佐子さんは鋭い指摘をしている。どうやら乃木将軍が二人を娶せたといいうのは、乃木という英雄につきまとう神話の一つにすぎないようだ。

 ヒロ子を追い出した〝犯人〟も乃木ではなく、強硬に放校を主張したのは別の人物だったらしい。学習院に軍隊風の教育を持ち込もうとした乃木だが、この時は賛成も反対もしなかったとされる。

 ヒロ子のその後の人生についてはよく分からない。だが無事〝許嫁〟と結ばれたのだから、ひとまずめでたい話とはいえるだろう。

 ちなみにこのミスコン、7000人もの応募があったと書いたが、実際は水増しに近いものだった。ミスコンという、「得体の知れないもの」に積極的に応じる女性はまだ少なかった。賞品目当てもあっただろうが、地方新聞を巻き込みつつ本人や親を説得し、けっこう無理してかき集めたらしい。

 コンテストの翌年、河岡潮風という人がこう書いている。

 「大福餅の潰れた様な顔の令嬢やら、山本勘助を女にした様な年増迄続々と送つてくる。夫れをお定りの粗製用紙に印刷するから、尚更デコボコになつて、一時は不美人展覧会の様な始末。心ある士をして、『美人あるなし、天下に美人ある無し』と三嘆せしめた」

 何ともすさまじい罵倒ぶりである。こうなると逆に顔が見たくなる。

 実は、彼女たちの写真は今でもさして苦労せずに見ることができる。ポーラ研究所がまとめた「幕末・明治美人帖」(新人物文庫)に、一次審査を通過した214人の写真が収録されているのだ。

 ここでは写真の印象を述べることはあえてやめておく。ただ、彼女たちの相当数が自ら望んだわけでもないのに参加させられ、そのうえ後世の人間たちからも云々される立場になってしまったことに同情を禁じ得ない、とだけ書いておこう。


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美人を追ってどこまでも [歴史]

 もし。

 「おっ、スッゲエ美人!」

 と、街角で声を上げたらどうなるでしょう。そこにいる男性の大半は反応鋭く辺りをキョロキョロ見回し始めるのではないでしょうか。何食わぬ顔をして、目だけはちゃっかり〝獲物〟を探している人もいるでしょう(笑

 美人であることは時に多くの同性を敵に回しかねませんが、美人が嫌いという男の話は聞いたためしがありません。

 当方もご他聞にもれずソワソワしてしまうタイプ。俗に「三日で飽きる」などといわれますが…そんなわけないわさ。もっともそんな女性と付き合ったことはなく、妻に娶ってもいないので実証不可能です(笑

 ともかく、男を代表する意気込みで美人研究に日夜いそしんでいる当方であります。

 ただし、世間とは少しばかり感覚の乖離があるようで…。乖離なんて小難しい言葉を使ってしまいましたが、要するにズレがあるということです。

 よく言われるんですよねえ。「お前はストライクゾーンが広すぎる」って。昔は面食いで通ってたんだけどな~

 話が逸れてしまいました。。。

 感覚の乖離について触れたのは、久しぶりに近代美人のことを取り上げようと思ったからです。

 確かに世の男性の大半は美人好きでしょうが、当方のように「昔の美人フェチ」で、究極の美人を発掘すべく日頃からアンテナを張り巡らしている人間となると、そうはいないと思います。

 残念ながらインターネットが普及しているとはいえ、一般女性の美人は存在を知ることすら困難。ですが、名の知れた人物に限っても美人データベースらしきものは作れます。まだまだ未完成ですが、今回はその中から海外の美女を何人かピックアップしたいと思います。

 名の知れた人物限定ということで、自ずとサンプル数に限りがあり、飛び抜けた美人とはいきません。それでも波乱万丈な人生という装飾が加わり、昨今のミス・ユニバースと比べても遜色ない魅力は備えていると思います。それでは100年以上昔にタイムスリップしてみましょう。

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 トップバッターは秋瑾(1875~1910年)。清代末期の動乱中国にあって革命に一生を捧げた女性です。中国版ジャンヌ・ダルクといったところでしょうか。

 浙江省紹興にルーツを持つ名士の家に生まれ、湖南省の豪商の息子に嫁いだ彼女は、革命への想いやみ難く、2児を生むと夫と別れて日本へ留学します。そして孫文を中心に東京で設立された革命団体の中国革命同盟会に加盟し、女性革命家としての道を本格的に歩み始めます。

 やがて清朝に気がねした日本政府が中国人留学生への締め付けを強め始めると、彼女はこれに激しく反発し、学生の一斉帰国を強硬に主張します。激情家だった彼女は集会で「反対者は死刑!」と声高に叫び、演壇に向かって短刀を投げつけたといいます。

 帰国した彼女は紹興に住み、革命家を育成するべく学校を設立し、武装蜂起に向け準備を進めます。しかし同郷の革命家、徐錫麟の蜂起に呼応して兵を挙げようとした彼女の企図は清朝によって挫かれ、捕らえられた2日後に斬首されてしまいました。

 着物を身に纏い、右手に日本刀を捧げたこの写真、彼女を取り上げる際に必ずといっていいほど用いられています。画像が鮮明でなく判別しずらい面はありますが、目鼻立ちが整っていて確かに美人。鋭い目つきから強気な性格が伺えます。

 彼女の写真は他にもいくつかあるようですが、残念ながらこれ以上に顔が良く分かる写真はまだ見つけていません。

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 次は今は亡きハワイ王国から。カイウラニ王女(1875~1899)は、王国最後の女王であるリリウオカラニ女王の姪にあたる人です。リリウオカラニには子供がなく、彼女は王位継承者とされていました。

 しかし、1893年にハワイ革命が起こるとリリウオカラニは退位に追い込まれ、やがて王国は滅亡。1898年には米国に併合されてしまいます。そしてカイウラニはその翌年、わずか23歳で病死してしまいました。美人薄命とはまさにこのこと。

 カイウラニの父親は白人(スコットランド人)で、鼻筋が通り、目がパッチリしているあたり、ネイティブハワイアンとはかなり違います。正面写真を見ると少し顎が張っていますが、エキゾチックな顔立ちは魅力十分。

 ちなみにこのカイウラニ、幼いころに日本の皇族との縁談が持ち上がったことがあります。リリウオカラニの兄で当時の王だったカラカウア王が、米国が虎視眈々と併合を狙う中で前途を危惧し、明治天皇に山階宮定麿王との政略結婚を持ちかけたのです。

 けれども不平等条約の撤廃を目指していた当時の日本は米国を敵に回したくないと考えたようで、結局この話は流れてしまいました。もし結婚していたならその後のハワイも日米関係も違ったものになっていたことでしょう。

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 凛々しい顔立ちをしたこの女性はジャネット・ジェローム(1854~1921)。あのウィンストン・チャーチルの実の母で、彼女自身は米国人です。

 チャーチルといえばでっぷりと太った第二次大戦前後の姿を思い浮かべますが、若いころはかなりの美男子でした。その形質はジャネットから受け継いだようです。

 ジャネットは夫に忠誠を尽くしつつも、英国国王のエドワード7世をはじめ多くの男性と浮名を流したといいます。そうした派手な男性遍歴は、チャーチルのキャリアアップにも何かしらの役に立ったようです。

 彼女は夫の死後、2度結婚しています。相手は2人ともチャーチルと同年代で、一方の男性に至っては3つ年下だったとか。

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 当時の女優に目を転じてみましょう。この女性はフランスのサラ・ベルナール(1844~1923)。彼女はおそらく最も有名な19世紀の女優でしょう。さまざまな舞台で活躍したほか、絵画や写真にもモデルとしてかかわり、19世紀後半から20世紀初頭にかけてフランスの芸術が大輪の花を咲かせる上で大きく貢献しました。草創期の映画にも出演しています。

 この写真は有名写真家のフェリックス・ナダールが撮影したものです。自然なしぐさにもかかわらず芸術的に見えるナダール独特の作風がサラの魅力を十二分に引き出しています。

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 こちらはサラと同様、女優で同時代を生きた英国のエレン・テリー(1848~1928)です。シェイクスピア演劇の役者として有名な人です。

 当時の女優は社会的地位が低く、サラ・ベルナールの場合は売春婦の娘として生まれ、自らも売春婦を兼ねていた時期があったようです。これに対してエレンは演劇一家に生まれ、子供も演出家や俳優になっている点、いわば演劇界のサラブレットと言え、サラとは似て非なる存在です。ただし、彼女もサラと同じく男性遍歴は華やかで(サラはバイセクシャル)、3度の結婚歴があります。

 このポートレートは16歳の時に撮影されたもので、撮影者は女流写真家のジュリア・マーガレット・キャメロンです。キャメロンは「巨匠」ナダールと違い、当時は半ばアマとして扱われ、評価が高まったのは20世紀に入ってから。脱力感のあるポーズに象徴される作風は、有名な「オフィーリア」を描いた画家ジョン・ミレーに代表されるラファエロ前派の流れを汲むといわれます。撮影者の作風が2人の個性の違いをいっそう浮き立たせています。

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 さて、19世紀の美人で当方が暫定トップに選んだのがこの目鼻立ちのくっきりとした正統派美人、アリス・ケッペル(1869~1947)です。ジャネット・ジェロームのところで触れたエドワード7世の「おめかけさん」として知られる人物です。

 エドワード7世は母親のヴィクトリア女王とは対照的に奔放な性格で、女遊びが激しい人でした。ベッドを共にした女性は数えきれず、その中にはサラ・ベルナールも含まれています(う、うらやましい)。その中でこのアリス・ケッペルは特にお気に入りで、片時も手放さなかったといいます。 

 アリスは伯爵家に嫁ぎましたが、そうはいっても相手は三男坊で跡継ぎではなく、裕福な生活は望むべくもありませんでした。彼女のような立場にある女性が生活や社会的地位の向上を望む場合、もっとも手っ取り早かったのが公妾になることでした。今のモラルではちょっと考えられませんが、当時はわりと当たり前のことだったといいます。

 気品にあふれたたたずまいに、「ロイヤル・ミストレス」としてのプライドが垣間見えます。


 いかがだったでしょうか。たった6人では満足できないかもしれませんね。美人研究はライフワークなので今後も取り上げていくつもりです。

 それにしても、6人それぞれ生い立ちや境遇が同時代人とは思えぬほど違っていて、見た目もさまざま。近代美人はそこがいいやね~

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 い、いやね、だからといって現代女性がダメだなんてこれっぽっちも言ってませんよ(節操なさすぎ?)


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観音像 [歴史]

 二十歳ぐらいの青年が、慰霊碑の前で神妙な面持ちをして手を合わせている。ここに来て10分足らずでもう2人目だ。

 渋谷駅のハチ公口を右手に出て、公園通りと呼ぶやや急な坂道を登ると、10分ほどでNHK放送センターに行き着く。片側2車線の道路を隔てた反対側には渋谷税務署(法務局)があり、その西北角に慰霊碑が建てられている。2・26事件を起こした青年将校らの遺族会「仏心会」が、昭和40年に建立したものだ。

 「午前中は車が2台とまっていました。遺族会の関係者だと思います」

 NHKの警備員が教えてくれた。

 花や菓子が捧げられ、大きな台座の上に観音像が立っている。5メートル以上あるだろうか。かなりの高さだ。反乱将校の真意を知ってほしいという、遺族の祈りに似た思いを感じさせる。それだけ多くの支持者がいて、義捐金に恵まれたのかもしれない。

 この日を遡ること75年、昭和11年2月26日の未明に幕を開けたこの事件は、帝都を大混乱に陥れたものの、29日には早くも収束した。昭和維新の断行を求めた反乱将校たちは、寵臣を殺されたことに怒り、早期鎮圧を命じた天皇に弓を引くだけの不敵さは持ち合わせていなかった。結局はそこがつけめになった。29日の夕刻には囚人護送車に乗せられ、陸軍の東京衛戍刑務所へと送られている。

 慰霊碑が建っているのは、その跡地である。

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 このあたりは渋谷の繁華街と代々木公園を往来する人でつねに賑わっている。法務局の東隣には、かつて渋谷公会堂と呼ばれていたCCレモンホールがあり、コンサートが開かれるたびに多くの若者でごった返す。慰霊碑の周囲は人通りが比較的少ないが、どこか場違いな印象はぬぐえない。

 事件当時は人が行き交う場所ではなかった。刑務所は、法務局やCCレモンホールだけでなく、法務局の裏手にある渋谷区役所や神南小学校を含む広大な土地を占有していた。NHKや代々木公園は演習場として使われていた。 

 演習場は戦後、米軍に接収され、米軍関係者の宿舎がいくつも建てられた。刑務所跡地は車輌の整備施設となった。それらが返還されるのは東京五輪後のことである。変化の激しい東京を象徴する場所といっていい。

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 2・26事件そのものはわずか4日間の出来事にすぎなかったが、反乱将校が衛戍刑務所に収監された期間は夏までの半年に及んだ。そして、彼らのうち民間人4人を含む19人が死刑判決を受け、この地で銃殺された。

 事件後のことで、しかも断片的な情報しか漏れ伝わっていないせいか、刑務所での彼らの動静に的を絞った本はほとんど存在しない。

 だがこの半年間、特に死刑執行直前の数日間は、日本を震撼させた4日間に勝るとも劣らない人間ドラマが展開された。

 関係者の回想を総合すると、刑務所には数棟の監房が並行して建てられていた。昔ながらの牢屋造りで、日本橋の小伝馬町にあった江戸時代からの牢屋を移築した建物もあった。一棟に約10畳の独房が十数個あり、房の両側は太い木製の格子で仕切られ、さらにその外側をコンクリートの廊下が挟んでいた、という。

 外からは、透明なガラス窓を透かして独房内部をうかがうことができた。建物の間隔は15メートルほど。このため収監者は両隣の建物にいる別の収監者を見、ジェスチャーでコミュニケーションすることがかろうじてできた。

 7月5日に開かれた軍法会議で判決が下ると、死刑になった者はひとつの建物(第五拘置監)に移された。遺族らと面会し、最後の別れを告げることも許された。

 5・15事件の処分が軽かったため、反乱将校の中には軽い刑で済むか、恩赦によって軽減されると期待する向きがあったとの見方がある。その真偽はともかく、19人という数が彼らの予想を超えていたのは確かだろう。中には心の準備ができておらず、衝撃をもって判決を受け止めた者もいたに違いない。

 それでも軍人の面目躍如というべきか、大半は普段どおり落ち着いていたようだ。

 執行前日の11日、彼らは3人1組で外での入浴を許された。彼らの先輩格にあたり、事件に連座して禁固4年の刑を受け、隣の建物に収監されていた大蔵栄一大尉は、入浴の際に対馬勝雄中尉がこちらに気づき、ニッコリ笑って右手を振ったと書き残している。

 正確な時刻は不明だが、翌日の執行は夕方には認識されていたとみられる。無期禁固の判決を受けて生き残った池田俊彦少尉は、夕方から隣の建物がざわつき始め、彼らが大声で話していたと振り返っている。最後の夜ということで、私語が許されたのだろう。

 大蔵大尉の房からは、中橋基明中尉の姿が垣間見えた。中橋が高橋是清蔵相を殺害したことは前にこのブログで触れた。中橋は、緋色の裏地をした派手な軍服のコートを着てダンスホールに通う、およそ軍人らしくない伊達者で、人間味にあふれた性格の持ち主だったといわれる。彼は大蔵大尉に向けてリンゴを振ったり、タバコの煙をふかしたりして、「どうだ、ほしいだろう」という風な、茶目っ気たっぷりの動作をしてみせた。

 軍歌を唄う者、詩を吟ずる者、読経する者、さまざまだった。事件を主導し、首相官邸を襲撃した栗原康秀中尉が「川中島」を吟じると、中橋が「栗ッ、貴様は何をやってもへたくそだが、いまの詩吟だけはうまかったぞ!」と、彼らしい優しさで声をかけた。

 話し声は夜更けまで続いた。眠る者はいなかった。明け方近くになると、君が代を斉唱する声が聞こえ始めた。最年長の香田清貞大尉が言い出したことだった。歌い終えると、天皇陛下万歳が三唱された。

 香田は万歳を呼びかける前にこう言ったという。

 「みんな聞いてくれ!殺されたら血だらけのまま陛下の元へ集まり、それから行き先を決めようじゃないか!」

 それを聞いた全員が、「そうしよう!」と口々に言い合った。

 いよいよ執行の時が迫ってきた。午前5時40分。真崎甚三郎裁判の証人となり、執行が翌年夏に延ばされた北一輝ら4人をのぞく15人が各々の房で軍医の検診を受けた。心身に異常がないか確かめるためである。

 そして6時40分ごろ、まず栗原ら第一班の5人が1人ずつ呼び出され、生き残った者たちの涙声の声援に送られながら拘置監を出ていった。栗原は「おじさ~ん」と、声を振り絞るように叫んだ。彼らを支援して逮捕され、隣の建物に収監されている予備役少将の齋藤瀏に向けたものだった。齋藤は栗原の父親である栗原勇大佐と親しく、両家は家族ぐるみの付き合いをしていた。栗原は齋藤の娘で歌人の齋藤史さんから「クリコ」と渾名で呼ばれていた。

 看守長と看守がつきそい、各自6歩の距離を保ちながら刑執行言渡所へ向かった。ここで所長が氏名を点検した後、執行する旨を告げ、遺言を聞き、遺書の始末などを聞きただした。

 あとは刑場で銃弾を浴びるだけである。

 所長の塚本定吉が書いた手記によると、彼らの態度はこの期に至ってもなお落ち着き払っていたというが、どうか。死刑を目の前にしているのだから、興奮状態になり、取り乱していたとしてもおかしくはない。

 それ以上に、初志を貫徹できなかったことへの悔しさや、自分たちを受け入れなかった天皇に対する怨念のような気持ちを処理しきれない者もいたのではないか。関係者が気遣って、そうした話は表には出さなかった可能性もある。一部の者が取り乱していたと記した本を読んだ記憶があるが、ちょっと思い出せない。

 よく晴れた、夏らしい日だった。早朝には靄が立ち込めていたという。

 処刑には100人あまりが立ち会った。刑場は構内の西北隅に作られ、煉瓦米を背に5つの壕が掘られた。おそらくそれは慰霊塔のすぐそば、税務署の玄関付近だったろう。

 それぞれの壕には十字架が据え付けられ、彼らはそこに体を縛り付けられ、そして地面にひざまずいた。顔面から腹まで白い布で覆われ、眉間の部分には狙撃手が撃ち損じないよう、黒い印がつけられた。

 全員が天皇陛下万歳を叫んだ。安藤輝三大尉だけは「秩父宮万歳」と付け加えたとされる。安藤が秩父宮と近い関係にあったことはよく知られている。ただ、栗原がそう叫んだとする主張もあり、作家の保阪正康氏はそれを裏付ける信憑性の高い証言を得ている。

 狙撃手は2人ずつ、10人がついた。そのうち1人が額に照準を合わせ、もう一人は撃ち損じた場合に備えて心臓を狙っていた。

 狙撃手にとっても重苦しい、つらい瞬間だった。同じ陸軍軍人どうし、しかも一部の者は顔見知りだったからである。

 練兵場の方からは、小銃や機関銃の音がひっきりなしに聞こえてくる。刑の執行を知らせないためのカモフラージュといわれる。そして―。

 ダダダダッ

 遠くから見守っていた他の受刑者たちは、空砲とは明らかに違う音が意味するものを即座に悟った。 

 処刑は7時、7時45分、8時30分と3回に分けて行われた。

 たいていの者は一発で即死したが、死に切れない者もいた。栗原は2発、中橋は3発の銃弾を浴びている。

 まったくの憶測だが、秩父宮万歳を叫んだのはやはり栗原で、叫びつつ銃弾を浴びたのかもしれない。齋藤瀏は、「栗原死すとも維新は死せず」とも叫んだと、聞き知った事実を書き残している。

 遺骸について、父親の勇がこう書いている。

 「…眉間に凄惨なる一点の弾痕、眼を開き、歯を食い締りたる無念の形相、肉親縁者として誰かは泣かざる者がありませう。一度に悲鳴の声が起こりました。この様な悲劇の場面は恐く十五人の遺族に次々と繰返されたことでありませう」

 法医学に暗い私には、彼があえて目を開いていたのか、それとも撃たれると自然にそうなるのか、よく分からない。一緒に処刑された民間人の渋川善助も目が半開きの状態だったという。目を閉じないものなのかもしれない。 

 ただ、そのような凄まじい形相からして、反乱将校の中でも一、二を争う急進派だった栗原らしい、壮絶な最期だったとはいえるだろう。

 彼と並ぶ急進派で、理論面でも事件を主導した磯部浅一は、その約1年後の8月19日に死んだ。磯部は膨大な手記を残し、その中で凄まじいほどの怨念をぶちまけ、昭和天皇を叱ることさえしている。が、北らとともに処刑された時の態度については、「天皇陛下万歳」を叫ばなかったこと以外、ほとんど情報が伝わっていない。

 彼もまた怨念を抑えきれず、カッと目を見開いていたのかもしれない。

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 20世紀以降、第二次大戦の戦犯処刑を除き、日本でこれほど多くの人間が死刑に処された例はない。それは幸いというべきだろう。

 一方で、最後の出来事であるが故に、反乱将校の存在はいまだ多くの人々の記憶に留まり続けている面もあるかと思える。

 慰霊碑の前でたたずんでいた青年は、しばらく観音像を眺めた後、やがて代々木公園から渋谷駅に向かう人波の中へと消えていった。それと入れ違うようにして、今度は70歳くらいの老紳士がやってきた。老紳士はおもむろに持っていたライターで線香に火をつけ、両手をすり合わせた。どうか成仏してください―。まるでそう言っているかのように、喧騒をよそに祈りながら何事かをつぶやいている。
 


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最期の飛行 [歴史]

 映画、もうどのくらい見ていないだろう。最後に見たのは「スパイダーマン」だったか。けして嫌いではなく、学生時代はちょくちょく映画館に足を運んでいたのだが。長時間じっとしていられない性分なので、どうしても足が遠のいてしまう。

 そんな中、久々に我慢してでも見たいと思わせる映画が現れた。女流飛行家、アメリア・イヤハートの人生を取り上げた「アメリア~永遠の翼」(主演・ヒラリー・スワンク)だ。

 アメリア・イヤハートほど、日米で知名度に差がある人物はいないだろう。おそらく彼女を知る日本人はかなりの少数派に属するはずだ。片や、米国では10本の指に入る超有名人とされる。だからおととし米国で封切られたと知ったとき、日本では公開しないものと思っていた。夫役を務めたリチャード・ギアの人気を当て込んだのだろうか。

 彼女が活躍したのは1920~30年代。特に1932年、単独・無着陸での大西洋横断を成し遂げたことが、彼女を一気に時の人たらしめた。人類初の達成者はその5年前に飛んだ、あのチャールズ・リンドバーグだ。アメリアの快挙は女性初となるが、米国人を熱狂させた点では人類初の快挙に負けていなかった。

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          (アメリアの大西洋横断は全米を熱狂の渦に巻き込んだ)
              

 1920年代、米国は第一次世界大戦の後遺症に苦しむ欧州をよそに経済発展をひとり謳歌し、完全に世界の主役へとのし上がった。そして世界で初めて大量消費社会を出現させ、大衆に支えられた英雄たちを次々と輩出していく。その代表的存在がリンドバーグであり、野球のベーブ・ルースであり、ボクシングのジャック・デンプシーである。アメリアもその一人だった。

 アメリアの場合、女性の社会進出を象徴していた点や、大西洋横断飛行が32年の出来事で、世界恐慌で打ちひしがれていた人々を励ました点が、やや異質といっていい。その分、英雄の要素をふんだんに持っていたと言えるかもしれない。

 自身は田舎生まれの素朴な人柄の持ち主で、飛ぶことが好きでたまらず、華やかな舞台を望んでいたわけではない。ただ世間の方が一介の飛行機乗りにとどまることを許さなかった。顔こそ十人並みながら、すらっとしてロングドレスがよく似合うことから、雑誌の表紙を飾ることもしばしば。大量消費時代にふさわしく、彼女の名を冠した商品も数多く登場した。

 彼女の人生はこれまでにも幾度となく映画の題材とされてきた。その活躍がいかに深く、米国人の記憶に刻み込まれているかが分かる。

 映画の題材として好まれる理由はおそらくもう一つある。

 1937年5月、40歳のアメリアは赤道上世界一周飛行の達成を目指し、航空機関士のフレッド・ヌーナンと共に米国を飛び立った。そして南米、アフリカ、アジアを経て、ひと月あまり後の6月30日にはニューギニア島北東部のラエに到着した。次の目的地は約2500マイル先にある南太平洋のホーランド島。そこまでたどり着けば米国本土は目前だ。世界一周は達成されたも同然といっていい。

 だが、彼女がホーランド島にたどり着くことはついぞなかった。搭乗機のロッキード・エレクトラ共々、忽然と姿を消してしまったのだ。

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   (アメリアが航空機関士のフレッド・ヌーナンと乗り込んだロッキード・エレクトラ。燃料をなるだけ多く積み込むため、二人の間はタンクで仕切られ、メモを竿でやり取りして会話した)
                   

 消息を絶った7月2日の朝7時42分(現地時間)、彼女は補給支援のためホーランド島付近で待機していた沿岸警備隊の巡視船イタスカ号に、こんな無線によるメッセージを送っている。
 
 「イタスカへ。私達はあなたたちの上にいるに違いないが、あなたたちが見えません!燃料は不足しています!あなたたちからの無線通信も聞こえません!高度1000フィートを飛行中」

 その口調はかなり焦っていたという。次いでその約1時間後の8時43分、
 
 「私達はいま157°-337°線上にいます。6210キロサイクルでこのメッセージを繰り返します。聞き続けてください!」

 と、いよいよ切羽詰った声で連絡してきた。157°-337°線というのは、北北西=南南東を結ぶ線上にいるという意味。あとは南北方向の位置線さえつかめれば機体の正確な位置が分かる。だがそれからしばらくして、「疑問を感じる」「南北線上を飛行中」という言葉が聞こえた後、通信は途絶えてしまった。

 謎の失踪はさまざまな憶測を呼び、やがて一部米国人の間では日本軍関与説がささやかれるようになった。日本の海軍に救助された、あるいはサイパンに連れて行かれ、処刑されたとするものだ。皇居で軟禁され、日本の降伏直前に殺されたという「トンデモ説」すら登場した。

 ラエからホーランド島へは、日本が委任統治領として事実上支配していた南洋諸島の南をかすめるようにして飛ぶ。〝日本領〟に入り込み、救助される可能性は確かにあった。

 米国側のある資料には、彼女が付近を航行していた水上機母艦「かもい(神威のことか)」に救助されたとの記述があるという。

 フレッド・ガーナーというジャーナリストは、1960年にかつて南洋庁の副支庁が置かれていたサイパン島を訪れ、彼女をこの目で見た、あるいは飛行機が不時着したのを見たなどとする現地住民の証言をいくつか得ている。

 また東京新聞は1970年、少女時代をサイパンで過ごした日本人の杉田美智子という人による、「巡査部長だった父親からアメリアが処刑された事実を聞いた」との証言を載せている。

 こうした事実と絡め、実は彼女が米国のスパイで、南洋諸島を偵察するため飛行ルートをわざと外れたとする見方も提示された。

 アメリアは時の大統領フランクリン・ルーズベルトと親しく、世界一周に際しては米軍の全面的なバックアップを受けている。消息が途絶えると、米国政府は戦艦レキシントン以下、多くの艦船を現場に急行させ、大規模な捜索を行った。捜索にかかった費用は400万ドル以上に及んだとされる。こうした事実がスパイ説の根拠とされた。

 当時の米国は、ウェーク島→グアム島→フィリピンと、給油しながら島づたいに太平洋を横断する「アイランドホッピング」による航空ルートを確保してはいた。だがこのルートは南洋諸島のど真ん中を突っ切るもので、日本と戦争になった場合は使えない。当時オーストラリア領だったニューギニア東部と、アメリアが遭難する2年前に米国領となったホーランド島をつなぐルートが確立されれば、両国にとって防衛上この上ない利益となる。

 この時期、日米間の交流はまだ少なくとも表面上は平和的に行われていた。遭難は日本でも報道され、日本政府は米国政府の要請を受けて捜索に協力している。しかし一方で両国関係が険悪となり、第二次大戦の足音が聞こえ始めていたのも事実であった。

 そんな日本軍関与説だが、日本人には幸いというか、やはり憶測に過ぎないようだ。

 まず「神威」が救助したとする説。これは1980年代に入って当時の乗組員が週刊新潮(だったか)で近くにはいなかったとして全面否定しており、それを裏付ける日誌も存在するという。

 やや意外だが、当時のサイパンにも外国人の訪問はわりあいあった。現地住民の証言は彼ら訪問者と混同し、記憶が曖昧になっている可能性がある。それに杉田美智子はこの年、日本に帰っていたようで、しかも父親からの伝聞だから、これを以ってアメリアがサイパンで殺されたと断定することはできない。

 スパイ説もおそらくないだろう。遭難後の大規模な捜索は、彼女が国民に愛されていたことの現れでこそあれ、日本軍の動向を知りたかった、あるいはスパイである証拠を握られたくなかったことを示すとは言い得ない。彼女は燃料確保のためエレクトラを改造し、余計な物を一切積み込まなかった。その事実は、むしろルートを外れる余裕がなかったことを物語っている。軍に協力できるとすれば、せいぜいフライトに関する情報を飛行家の立場から提供することぐらいだったろう。

 アメリアが遭難した7月2日からわずか5日後に盧溝橋事件が起き、日中戦争の本格的な火蓋が切られた。日本としては南洋諸島の防備に気を配る余裕はなかったはずだ。それでもこの年、ようやく南洋諸島での飛行場建設を始めているが、まだとても飛行場と呼べるシロモノではなかった。この時期にアメリアを使って日本軍の動向を探ろうとしたのなら、それは無駄に近い努力だったといえる。

 結局のところはホーランド島を見つけられずに燃料切れ、もしくは機械トラブルで墜落したか、不時着したと考えるのが妥当だろう。海底に沈んだとすれば見つけるのはまず無理といっていい。海に沈みながら発見された船にあのタイタニック号があるが、あれは沈没した原子力潜水艦を調べる過程で偶然発見されたものである。そのタイタニック号も2100年ごろにはバクテリアによる腐食が進んで崩壊すると予測されている。

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          (驚くほどアメリアそっくりな点はさすがハリウッド映画)
             

 ともあれ、「アメリア~永遠の翼」はそうした事実をどう描き出しているのか。楽しめる作品か否かは別として、気になる映画ではある。ハリウッド映画は驚くほどリアルでレベルの高い作品を生み出すかと思えば、娯楽を追求するあまりリアルさを欠き、物議を醸すことも往々にしてあるので、期待のしすぎは禁物だが。

 ちなみに米国人にとってこの国民的ヒロインへの思い入れは相当に深く、その行方を探すことは今なおエネルギーを注ぐに値するらしい。海に沈んだ航空機の保存などに取り組む民間団体「タイガー」は、昨年5月に不時着した可能性のあるキリバスのニクマロロ島で人工物を収集し、現在はアメリアのDNAと照合している最中という。

 そうしたニュースを耳にして、もういい加減ゆっくり眠らせてやれよと思ってしまう一方、最期に関する謎が解けるかもしれないと胸躍らせる複雑な自分がいたりする。


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謎の古写真 [歴史]

   何年も気になっている。 

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 戊辰戦争で函館に「脱走」した幕臣たちの写真。

 右端の人物、ひょっとしたらひょっとして…。

 新撰組の土方歳三!?  

 「私のトシさまはこんなに老けてないわよ。キィー!」と熱心な土方ファンの女性からお叱りを頂戴したら、「違うに決まってますよねえ…」とすぐさま前言を翻してしまいそうなほど、自信もなければ確証もない。

 だけども初めて目にした瞬間、その容貌から「もしや…」との思いがふと頭をよぎった。あくまでよぎったというレベルですけど(明らかに老けて見えるが、古写真の保存状態はさまざま。それだけで簡単には切り捨てられない)。

 ともかく、もし仮にそうだと証明されれば世紀の大発見である。そうか、歴史にヲレの名が残るか~。エヘ。

 そこでこの写真について、下心パワーとわずかな手持ちの情報を駆使してアレコレ考えてみる。

 まずは被写体の人物たちだが、彼らが「脱走兵」なのは確実だ。右から2番目の人物は人見勝太郎といって、北海道で「蝦夷共和国」ができたときに松前奉行を務めた人だ。人見の写真は他にも存在し、この写真とソックリなのでこの点について異論はなかろう。  

 中央の人物についても甲賀源吾で間違いない…と思う(詳しくはウィキを)。甲賀は軍艦頭という、海軍で奉行に次ぐ要職にあった人。  

 彼らが蝦夷地へ渡ったのは1968年10月20日。甲賀は軍艦「回天」の船長として翌年3月に行われた「宮古島海戦」に参加し、同月26日に戦死している(いずれも旧暦)。おそらくこの写真はこの5カ月の間に函館で撮影されたのだろう。  

 人見と甲賀が写っているということは、残る3人も幹部級とみてさしつかえないはず。土方の蝦夷共和国での役職は陸軍奉行並で、陸軍奉行の大鳥圭介に次ぐ地位なので、この中に入っていても全く不思議ではない。問題はここからだ。  

土方歳三2.JPG                                                                               

 土方の写真は2枚現存していて、全身写真と、上半身のみのものとがある。両方とも服装が同じで、おそらく同じ日の撮影と推測される。撮影時期や場所が確定しているわけではないようだが、やはり函館で、先に述べた期間内とみてよさそうだ。

 現存写真の土方と集合写真の「土方」(仮にそうしておく)にはいくつか違いがある。ひと目で違いが分かるのは髪。土方は「漆黒の」という形容がふさわしい豊かな髪の持ち主だった。これに対し、「土方」の髪は明らかに薄い…。  

 集合写真では全員がまだ髷を残しているので、剃っていた月代が5カ月の間に伸びた可能性はある。幕末には近藤勇の写真を見ても分かる通り、総髪という、月代を剃らないタイプの髪型が志士の間で流行した。おそらく土方も総髪だったと思われるが、それでも戦争中ということでそうした可能性がないとはいえない。なぜなら月代を剃る習慣はもともと兜をかぶりやすくするために生まれたもので、戦いに臨む土方が「武士道」に則ってそうした可能性も捨てきれないからだ。フ~、何とかセーフ。  

 もっとも、この推論にはさらに不利な材料がある。戊辰戦争終盤の同年9月初旬、仙台城内の応接所で開かれた奥羽列藩の軍議の席で土方を見た二本松藩士安部井磐根は、「色は青い方、 躯体もまた大ならず、漆のような髪を長ごう振り乱してある、ざっと云えバ一個の美男子と申すべき相貌に覚えました」と回顧している。この時点で土方はすでに月代を剃るどころか、髷自体を切っていた可能性すらあるのだ。

 う~ん、土方である可能性はやはり低いといわざるをえないようだ。

 一方、「土方」をもう一度見てみると、ほかにも刀とブーツの長さが違う。ブーツは短すぎ、刀は長すぎる。ブーツは他に持っていたという解釈が成り立つとして、刀を替えることはあり得るのだろうか。土方の刀は「和泉守兼定」で、長さは2尺2寸8分。これはかなり短い部類に入る。「土方」が帯びている刀は明らかにそれよりも長い。

 やっぱ土方説、ないわ。  

 いや、それでも土方である可能性はある! と、自分に言い聞かせてみる。

 現存写真の土方をよく見ると…ん、何か左手がおかしくないか?指先が欠けているように見えるのだが。一方、集合写真は両手が完全に隠れている。これは何を意味するのだろう。単にそう見えるだけなのか…。

 土方は函館にたどり着くまでの間、3カ月ほど会津で傷養生している。ただ負傷したのは足で(註:宇都宮城を巡る戦いにて負傷)、指を切断したとの記録は見たことがない。

 ここら辺は詳しく調べる余地があるのでは(う~ん、ちょっと強引)。  

 参考までに、蝦夷共和国の幹部は以下の通り(ウィキからの抜粋です)。

 総裁 榎本武揚
 副総裁 松平太郎
 海軍奉行 荒井郁之助
 陸軍奉行 大鳥圭介
 陸軍奉行並 土方歳三
 箱館奉行 永井尚志
 箱館奉行並 中島三郎助
 江差奉行 松岡四郎二郎
 江差奉行並 小杉雅之進
 松前奉行 人見勝太郎
 開拓奉行 澤太郎左衛門
 会計奉行 榎本道章(対馬)
 会計奉行 川村録四郎
 軍艦頭 甲賀源吾
 歩兵頭 古屋佐久左衛門
 陸海軍裁判頭取 竹中重固
 陸海軍裁判頭取 今井信郎   

 自分が調べた限り、ここに名を連ねている人物で土方以上に似ていて(あくまで主観だが)右端の人物に該当しそうな人は見あたらなかった。

 以下は共和国の軍事組織(これもウィキ情報)。

●陸軍(陸軍奉行:大鳥圭介、陸軍奉行並:土方歳三)
・第一列士満:第一大隊(瀧川充太郎、4個小隊、伝習士官隊、小彰義隊、神木隊)第二大隊(伊庭八郎、7個小隊、遊撃隊、新選組、彰義隊)

・第二列士満(本田幸七郎):第一大隊(大川正次郎、4個小隊、伝習歩兵隊)、第二大隊(松岡四郎次郎、5個小隊、一聯隊)

・第三列士満:第一大隊(春日左衛門、4個小隊、春日隊)、第二大隊(星恂太郎、4個小隊、額兵隊)

・第四列士満(古屋佐久左衛門):第一大隊(永井蠖伸斎、5個小隊、衝鋒隊)、第二大隊(天野新太郎、5個小隊、衝鋒隊)

砲兵隊:関広右衛門 工兵隊:小管辰之助、吉沢勇四郎 器械方:宮重一之助 病院掛:高松凌雲

●海軍(海軍奉行:荒井郁之助)
開陽(澤太郎左衛門、1868年11月江差沖にて沈没)
回天(甲賀源吾、のち根津勢吉、1869年5月箱館港にて自焼)
第二回天(小笠原賢蔵、1869年3月九戸港にて自焼)
蟠竜(松岡磐吉、1869年5月箱館港にて自焼)
千代田形(森本弘策、1869年4月箱館港にて座礁)
神速(西川真蔵、1868年11月江差沖にて沈没)
輸送船:太江丸、長鯨丸、鳳凰丸、長崎丸、美賀保丸、回春丸 

 この中に該当の人物がいる可能性はある。特に甲賀とおぼしき人物の服装からして海軍ではなく、陸軍がアヤシイ。

 

 これまで多くの幕末関連本を見てきたが、写真に関する誤りは頻繁に見かける。ひどいのになると、幕末ファンの間でもはや笑いのタネと化している「フルベッキ写真」をいまだに取り上げている本すらある。この写真はフルベッキを囲む形で西郷隆盛や坂本龍馬などの有名な志士が勢ぞろいしているとして、ひところかなり話題になった。

 もちろん、素人でも明らかなウソであると即座に見抜けるシロモノなのだが、いまだに詐欺師的な人物によって額縁に入れた複製写真がオークションで高値で販売され、買う人が絶えない。それだけ誤った情報が蔓延し、信じ込んでいる人がいるのだろう。

 ただし、そういった事実を必ずしも一笑に付してしまえないのは、古写真の世界では定説が覆されることがあるからだ。 幕末の有名人が写っているとされる写真には、来歴が不明で研究者を手こずらせるものが少なくない。

 例えば坂本龍馬の妻だったおりょうや、明治天皇の妹である和宮とされている写真。ほとんどの本が断定的に紹介しているが、最近になって間違いとする意見が優勢になりつつある。 

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 現時点で集合写真の人物が土方であるという確証は何ひとつなく、あくまで直感で、チラっとそう思っただけだ。けれども現時点では彼が誰なのか証明されたわけではなく、土方ではないと証明されたわけでもない。少なくとも当方の知る限り。粘ってみる価値はある!  

 ここはぜひ熱心なファンにこそ、この謎を解き明かしてほしい。たとえ結果が「キィー」であろうとも。


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強運の星 [歴史]

 相変わらずどこにも出かけていない。それではちょっとシャクなので、1000年前の星空を眺めてきた。もちろん、脳内でのことだが…。

  1054年、といっても大半の人はピンとこないだろう。実はこの年、天文学的にとても重要な出来事があった。

 その模様を平安末期の歌人、藤原定家の日記「明月記」から拝借したい。ちなみに定家はこの年から100年以上、下った時代の人である。

 …後冷泉院の天喜二年四月中旬以後、丑の時に客星が觜と参の度に出づ。東方にあらわれ、天関星に孛(はい)す。大きさ歳星の如し…

 この一文は、オリオン座(正確には隣のおうし座)の方向に突如、明るい星が出現した事を記録したものだ。4月中旬というのは旧暦で、今の暦では5月下旬になる。丑の時は夜中の午前1~3時、觜と参はともにオリオン座、天関星はおうし座のゼータ星、歳星は木星を指す。

 客星というのは、いつもは見えないものの、一時的に明るさが増し、肉眼で見える星のことで、超新星や彗星がそれに該当する。「明月記」の記述は超新星を示している。この年におうし座でとある星が大爆発を起こし、極めて明るく輝いたのである。その残骸は現在、かに星雲として知られている。

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 定家は木星(-2等程度)ぐらいの大きさ(明るさ)としているが、実際の明るさは-6等ぐらいで、最大で-4・6等の金星をもしのいだようだ。この明るさなら昼間でもよく見えただろう。金星も見るのは可能だが、かなり困難。白昼堂々と見えるのは月や大彗星ぐらいしかなく、非常に稀な出来事といえる。

 ちなみに「明月記」でいう5月下旬だと、おうし座は太陽に近すぎて夜中には見えないので、書き間違いか何かで、実際はもう少し後の出来事と推測される。中国の史書「続資治通鑑」では7月4日の出来事とされている。

 超新星爆発は銀河系内で起こらない限り、遠すぎて肉眼ではっきり見える明るさにはならないのが普通だ。過去に記録された例は少なく、銀河系内で起こったと裏づけが取れているのはわずか7例にすぎない。

1=SN 185 185年 ケンタウルス座 -8等 *最古の観測記録
2=SN 393 393年 さそり座 -1等 
3=SN 1006 1006年 おおかみ座 -9等 *太陽と月を除き最も明るく見えた天体
4=SN 1054 1054年 おうし座 -6等 *かに星雲
5=SN 1181 1181年 カシオペア座 0等
6=SN 1572 1572年 カシオペア座 銀河系 -4等 *チコの星
7=SN 1604 1604年 へびつかい座 銀河系 -2・5等 *ケプラーの星 

 超新星爆発は星が一生を終える際に引き起こすもので、すべての星がそうなるわけではなく、太陽程度の大きさなら爆発することなく収縮して白色矮星になると言われる。銀河系内で起こったとしても、銀河の中心を挟んだ太陽系の反対側で起こったり、星雲に遮られる場合があり、いつも地球から見られるとは限らない。銀河系内では数十年に1度の割合で起こると見積られている。その正確さはともかく、生きているうちに見られれば相当にラッキーなのは間違いない。

 「天文考古学」と呼ばれる学問をご存知だろうか。これは過去に記録された天体現象を現代の天文学的知識で検証するものだ。あるいはストーン・ヘンジやピラミッドといった古代遺跡の謎を解明する際にも登場する。古天文学ともいうらしい。

 例えば、惑星や月といった地球から近い天体や、ハレー彗星のように地球に回帰する周期がはっきりしている天体は、過去に遡って位置や運行状態を把握できる。それを過去の資料や文献と照合すれば、その記述が正しいかどうかが分かるし、記事が簡潔すぎる場合に補える。月や星は歴史解明の有力な手がかりになるのだ。

 逆に、過去の記録が天文学の発展に寄与する場合もある。

 超新星爆発の研究が大きく前進したのは20世紀前半のことだった。スウェーデンのルンドマルクは古代中国の史書「文献通考」を調べて客星に関する記事を丹念に拾い、その付近にある現在の天体と比較したリストを1921年に作成した。次いで1928年、ハップル望遠鏡で有名なアメリカのエドウィン・ハッブルは、かに星雲の膨張を逆算すると、900年前にはひとつの点になり、ルンドマルクのリストにある1054年の客星がかに星雲と一致することを示した。6年後の1934年には日本のアマチュア天文家、射場保昭が「明月記」の記述をアメリカの天文雑誌「ポピュラー・アストロノミー」で紹介し、欧米で注目を集めている。過去の記録が超新星の研究に貢献したのである。

 藤原定家は相当に筆まめで、好奇心旺盛な人物だったようだ。そのおかげで天文学が発展したのだから、彼に感謝しなければならないだろう。

 さて、これで終わりでは何とも芸がないので、少しだけ、あることを調べてみた。さきほどの年表を再度、取り上げてみたい。

1=SN 185 185年 ケンタウルス座 -8等 *最古の観測記録
2=SN 393 393年 さそり座 -1等 
3=SN 1006 1006年 おおかみ座 -9等 *太陽と月を除き最も明るく見えた天体 ■藤原道長(966~1028)
4=SN 1054 1054年 おうし座 -6等 *かに星雲  ■藤原頼通(992~1074)
5=SN 1181 1181年 カシオペア座 ■源頼朝(1147~1192)、ジョン王(1167~1216)
6=SN 1572 1572年 カシオペア座 銀河系 -4等 *チコの星 ■織田信長(1534~1582)、豊臣秀吉(1537~1598)、徳川家康(1543~1616)、エリザベス一世(1533~1603)、フェリペ2世(1527~1598)、ガリレオ・ガリレイ(1564~1642)、三浦按針(1564~1620)、ティコ・ブラーエ(1546~1601)、ヌルハチ(1559~1626)
7=SN 1604 1604年 へびつかい座 銀河系 -2・5等 *ケプラーの星 ■徳川家康、三浦按針、ガリレオ・ガリレイ、ヨハネス・ケプラー(1571~1630)、ヌルハチ、ホンタイジ(1592~1643)

 今度は爆発があった年に生きていた歴史上の人物を■以下につけてみた。こうしてみると、日本の政治を支配した有名な人物が多いのに気づく。1と2は大和朝廷が誕生する前か、誕生したての出来事なので、実質5回と考えればかなりの確率だ。1006年から1604年の間で彼らに並ぶ人物といえるのは平清盛と足利尊氏くらいだろうか。清盛は惜しくも1181年の爆発直前に死んでいる。
 
 特筆すべきは徳川家康である。彼は1572年と1604年の2回、超新星爆発に立ち会っている。しかもどちらの爆発時も幼すぎず、高齢すぎない年齢だ。彼が実際に見たという記録はないようだが、見られる立場にあっただけでも何か特別な星の下に生まれたのではと感じてしまう。

 ご覧の通り、銀河系内での超新星爆発は1604年以降、長いこと記録されていない。確率的にはそろそろ起きてもいいころだ。はたして次回は彼らに匹敵する人物が存在しているのだろうか。


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龍馬暗殺の黒幕は… [歴史]

 師走に入り、2008年も残すところあとわずか。今年もまた目的を果たせずに終わってしまいそうだ。龍馬暗殺のことである。
     

 坂本龍馬が中岡慎太郎とともに京都の近江屋で刺客に襲われ、殺されたのは、1867年11月15日(死亡は16日)のことだ。これは旧暦で、新暦なら12月10日になる。毎年、寒さが厳しくなるこの時期になると、日ごろから龍馬暗殺について詳しく調べようと思いつつ、全くできていないのを悔やむのが決まりごとになっている。

 歴史ブログをやっていてこういうのも何だが、基本的に歴史的事件の真相解明は歴史家にまかせるべきだと思っている。龍馬暗殺もそうだ。一次的なものから関連情報を丹念に拾い集め、事実がどうかひとつひとつ裏づけを取り、当時の情勢と照らし合わせながら推測し、犯人の的を絞っていくー。暗殺の決定的証拠が残されてない以上、それが解明への近道であり、このような作業は知識や情報収集力、時間の余裕に欠ける一般の歴史ファンには荷が重い。

 だが、龍馬ファンであればあるほど、暗殺の謎を解き明かしたいと思うのもよく分かる。そう言う自分からしてそうだ。ファンの多さを示すように、ネット上には関連情報があふれている。中にはすごくよく調べていらっしゃる方もいて勉強になる。そもそも歴史の謎についてあれこれ思いを巡らすのは、歴史ファンが最も楽しみとすることだ。

 ただ、そうしたサイトを見ていてひとつ気になることがある。(私には)荒唐無稽としか思えない薩摩藩黒幕説がよく取り上げられるのは、一般の興味をひきつけやすい陰謀説だから分かるとしても、肝心な人物が登場しないケースが多すぎるように思われるのだ。

ブログ・近江屋1.JPG

                   (龍馬が斬られた近江屋) 

 この暗殺事件の実行犯は、京都見廻組であると言ってほぼさしつかえないと思う。新撰組説もあるが、ちょっと無理がある。彼らがよく通ったとされる料亭「瓢亭」の下駄が残されていたことや、幹部の原田左之助のものと思しき刀が遺棄されていたこと、事件直後に現場へ駆けつけた谷干城の推測がその理由として挙げられているが、谷はいわれているように新撰組説を頑なに主張していたわけではなく、可能性が強いといっていただけだ。瓢亭には見廻組の連中も通っていたようだから有力な証拠にはならないし、原田の刀についても新撰組から脱退した御陵衛士がそう推測しただけで、断定できるものではない。

 それからすれば、見廻組説の方がはるかに説得力がある。組幹部の今井信郎による1870年の供述(自分も加わったとするもの、後年「近畿評論」に載った証言もある)があるし、渡辺一郎が大正時代の死去直前に残した証言(剣技を買われて暗殺に加わり、自分が殺したとするもの)もある。彼らの証言内容に微妙な食い違いはあるにせよ、大筋では矛盾していないし、内容が具体的だ。
                 

 問題は黒幕で、ここでは主に3つのケースが考えられる。1つは見廻組組頭の佐々木只三郎が独自の判断で暗殺したとする考え方、2つ目は幕府上層部による命令説、そして3つ目が幕府以外からの指示とする説だ。このうち独自判断説はないとはいいきれないが、治安組織の指揮・命令系統や、命令に忠実だったという佐々木の性格から考えて、ほぼないとみていいだろう。

 幕府上層部による命令説は、最も妥当に見えるものの、私はこれもないと思っている。この説では、見廻組を監督する立場にあった(とされる)目付の榎本対馬守道章が疑われている(榎本は戦死した佐々木と違い、戊辰戦争後も生き、1893年に亡くなっている。残念ながら、龍馬暗殺に関する彼の証言があるのか私には分からない。

 彼を命令者とする説の有力な材料としては、勝海舟の日記が挙げられる。当時、榎本の上司である大目付は松平勘太郎だった。勝海舟は1870年4月15日付の日記でこう書き留めている。「松平が(自分に)事件について言った。『(捕まった今井を(新政府が)問い詰めたところ、佐々木をリーダーとして今井らが加わり、暗殺が行われたという。命令者がいたようだが、それが榎本かどうかは分からない』と」。これはよくいわれているように、海舟が黒幕を榎本と推測したのではない。しかも、榎本の上司だった松平が事情を呑み込めず、不思議がっているのである。

 私の知る限り、目付の職にあったのは榎本だけではないし、当時は龍馬と親交のあった永井尚志が京都に滞在していた。もし榎本が龍馬を殺そうとすれば、松平勘太郎や永井の耳に入るのが自然だし、大政奉還にかかわった永井は(もし竜馬が大政奉還の発案者と知らなくても)止めただろう。黒幕を榎本と判断するには材料が乏しすぎる。

 一方、幕府以外を黒幕とする説の有力な材料には、会津藩の公用人(京都における外交のトップ)だった手代木直右衛門の証言がある。彼は佐々木の実兄で、1904年に79歳で亡くなっているが、その直前に暗殺の経緯を子孫に語り残したとされる。以下、手代木家の私家版「手代木直右衛門伝」(1923年発行)による。

 …手代木翁死に先だつこと数日、人に語りて曰く坂本を殺したるは実弟只三郎なり、当時坂本は薩長の連合を謀り、又土佐の藩論を覆して討幕に一致せしめたるを以て、深く幕府の嫌忌を買ひたり、此時只三郎見廻組頭として在京せしが、某諸侯の命を受け、壮士二人を率い、蛸薬師なる坂本の隠家を襲ひ之を斬殺したりと…

 龍馬が暗殺された当時、政局はきわめて流動的な状況にあった。徳川慶喜が大政奉還で政権返上を決めたとはいえ、彼はまだ朝敵になっておらず、引き続き政権運営の主役を担う可能性が高かった。敵が健在である以上、倒幕を目論む薩長としては、仲間の龍馬を殺している場合ではなかった。内ゲバというのは、あくまで権力をつかんでから起こるものだ。

 一方、会津藩には殺すに足る理由があった。彼らの大半は大政奉還に反対であり、徳川幕府を存続させるため薩長との一戦も辞さない覚悟でいた。彼らにとって「過激派」である龍馬を殺すことは、敵対勢力を削ぐ意味でプラスだった。となると、暗殺を指示した可能性が高いのは、会津藩主で京都守護職にあった松平容保ということになる。

 しかし、事実はそう単純でもないらしい。ほかにも黒幕候補がいるのだ。ここで、「なぜ肝心の人物があまり登場しないのか」という、冒頭の疑問に戻る。

 「手代木直右衛門伝」の続きを見てみたい。

 …蓋し某諸侯とは所司代桑名侯を指したるなり、桑名候は会津候の実弟なりしを以て、手代木氏は之が累を及ぼすを憚り、終生此事を口にせざりしならん…

 桑名候というのは、容保の弟で伊勢桑名藩主だった松平定敬のことだ。彼は当時、京都所司代を務めており、幕権を維持することにかけては兄に勝るとも劣らない強硬派だった。京都所司代は京都の治安維持を主な任務とし、幕末当時は京都守護職(つまり容保)の管轄下に置かれていた。見廻組もまた、守護職の管轄下にあった。定敬が黒幕なら、佐々木に「依頼」したとしてもおかしくない。(見廻組が所司代の直接の指揮下にあったとしているサイトもある。詳しく調べ切れていないが、もしそうであれば「依頼」ではなく「命令」ということになる。どちらにせよ、以上の話に無理は生じない)

 暗殺は政治的なものではなく、たんに寺田屋事件で取り逃がした龍馬が「おたずね者」だったから行われたとする意見もある。だが、私は政治的な理由から行われたと思っている。大政奉還直後という微妙な時期に殺そうとしたこと自体が政治的行動といえるし、大人数による「捕り物」と異なり、暗殺という隠密の手段をとったことがそれを示している。近江屋が土佐藩邸のそばにあったから少人数で隠れて行ったとすれば、なおさら政治的な事件になり得ることを犯人たちは分かっていたことになる。それに、どちらが真の動機であるにせよ、定敬黒幕説を否定する理由にはならない。

 定敬は手代木よりも後の1908年に亡くなっているが、手代木の証言が公にされたのは、それより後だったはずである。容保は1893年に死去している。

 さらにいえば、今井の供述には暗殺の実行犯として、渡辺吉太郎という人物の名が出てくる。彼は桑名藩の人だという(渡辺一郎とは別人の可能性が高い)。

 定敬ではなく、容保が黒幕だった可能性もあるが、少なくとも暗殺が会津藩と桑名藩、見廻組の協力によるもので、この兄弟が深くかかわっている可能性は高いといえるだろう。今年も調べきれずに終わりそうだと書いたのも、渡辺を含め、当時の容保と定敬について、もう少し詳しく調べる余地があるのではないかと思っているからだ。たとえ決定的な証拠が出てこなくとも、事件の輪郭が少しは明確になるのではないだろうか。

ブログ・竜馬.JPG
                        

 坂本龍馬という人は、「竜馬がゆく」の影響で、これだけ国民的人気を博していながら、いまなお業績について評価が分かれている、不思議な人物だ。一部には薩長連合をはじめ、彼の独力による業績はほとんどないとして、かなり低く見積もる研究者もいる。これはまた別のテーマになるので、今回は触れない。

 ただ言いたいのは、彼はやはり一介の素浪人ではなかった、ということだ。幕末の出来事を改めて振り返ってみると、幕府側が暗殺という手段で人を殺した例はほとんどない。新撰組にしても、近藤勇らが局長の芹沢鴨を殺した事件と、脱退した伊東甲子太郎らを殺した油小路事件ぐらいで、いずれも内ゲバといえるものだ。

 権力側による暗殺(あるいは白色テロというべきか)は、権力の所有権が脅かされたり、表立って警察を動かせないといった、相応の理由がないと行われにくい。そして対象は、権力を脅かすだけの力量を持っている人物であることが多い。龍馬の暗殺は、幕府の崩壊が迫った段階で、しかも彼が重要人物だったから行われたのだ。西郷隆盛や桂小五郎といった他の大物は、京にいないか、手厚い警護に守られていたから殺されることがなかったといえる。そう考えると、藩邸のすぐそばにいたという油断があったとしても、大切な時期に重要な人物を2人も失った土佐藩の失態ぶりにあきれてしまう。

 龍馬が暗殺された半月後、王政復古のクー・デターで薩長は主導権を握り、さらに半月あまり後には鳥羽伏見の戦いに勝利し、政権獲得への流れを作った。容保・定敬の兄弟は、戦いを不利とみた慶喜に半ば無理やり東京へ連れて行かれ、中途半端な状態で戊辰戦争を戦うことになる。

 鳥羽伏見の戦いまでの1カ月半を乗り切れば、龍馬は若くして死ぬことはなかった。殺す側からいえば今しかない、今だからこそというタイミングで殺されたのだと思うと、何とも惜しい気がしてならない。


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時代のスター [歴史]

 まさかというべきか、やっぱりというべきか。

 「男装の麗人」「東洋のマタ・ハリ」と呼ばれた川島芳子は、強烈な個性が無数に蠢いていた20世紀前半の中国にあって、第一級の個性の持ち主であり、時代のスターだった。その彼女が銃殺をまぬがれ、30年も生きていたという、驚きのニュースが飛び込んできた。

 長くなるが、彼女の経歴を記しておく。清の世襲皇族で、開明派とされた粛親王の弟14王女として、1907年に北京で誕生。粛親王の義兄弟で、彼を擁して満蒙独立運動を行った川島浪速の養女となり、15年に日本へ渡り、東京や松本で育った。20歳のときに蒙古王の息子と結婚したが、2年で離婚。次いで陸軍少佐田中隆吉(後に少将、極東裁判でA級戦犯に不利な証言をしたことで知られる)と出会ったのを機に、謀略の世界へと足を踏み入れる。   

  愛人関係にあったとされる田中の指示に従い、32年には上海事件の原因になった日本人僧侶殺害事件にかかわったとされる。この事件では、日本人僧侶が芳子の雇った中国人殺し屋に殺されたといわれ、今日では満州事変に対する世界の目をそらそうとした日本軍による自作自演とみなされている。その直前には溥儀の皇后である婉容(後にアヘン中毒となり、非業の死を遂げた)の「救出」(満州国建国に備えたもの)にひと役買っている。日本軍が満州国の版図拡大を図った熱河作戦にも、民間人女性ながら従軍した。東洋のマタ・ハリといわれるのは、そんな「スパイ」としての活躍にちなんでのことである(マタ・ハリはオランダ系とマレー系のハーフで、第一次大戦中にスパイ容疑で処刑された)。

 一方、彼女の時に常軌を逸した振る舞いは、毛並みの良さもあり、若いころから世間の注目を集め続けた。17歳のときには自殺未遂事件を起こし、断髪している。男装は、もともと男の子として育てられたことが影響しているようだ。この事件は新聞にも取り上げられ、真似をする女性が出たり、ファンが押しかけるほどの騒ぎになったという。自殺未遂の原因は、陸軍少尉だった山家亨との恋愛問題であるとも(この人がまたおもしろい人なので、別の機会に触れたい)、養父の川島に関係を迫られたためともいわれる。

 中国では軍の謀略にかかわる一方、天津で中華料理店を経営。ラジオ番組にも出演し、即興で披露した歌が話題となり、レコードとして発売されたこともあった。結婚は1回だけだが、田中や山家以外に、秘書の小方八郎青年とも愛人関係を結んでいる。山口淑子(李紅蘭)さんの回想によると、ふとももに注射を打っていたというから、麻薬を常用していたようだ。

 ちなみに、「男装の麗人」というニックネームは、30年代前半に村松梢風が彼女をモデルに書いた小説の題名にちなむものだ。生存当時から小説のモデルにされていた事実からしても、時代のスターという表現は大げさではない。

 謀略分野における彼女の活動は、いまだ謎に包まれているが、日本の中国侵略に果たした役割はさほど大きくはなく、誇張されているといっていい。軍にとっては制御しがたい存在だったようで、後年には暗殺計画が持ち上がっている。一方、30年代後半に入ると彼女に対する世間の注目は冷めていき、日本の傀儡と化していく満州国への失望もあってか、芳子は孤独感にさいなまれるようになる。だが、「中国人」でありながら日本に協力したこと、中国人の間でよく知られていたことは、中国に対する裏切り者=漢奸として処刑される十分な理由となった。

 そして芳子は戦後捕らえられ、48年3月25日に北京で銃殺された、はずだった。それが30年も生きていたというのだから、驚き以外の何ものでもない。

 ただ、「やはり」という感想にも、それなりの理由がある。本当に殺されたのは替え玉で、実は生きていたといううわさは、死刑執行直後からあった。
 
 話によると、劉鳳貞という女性が、「同じ監獄に収監されていた重病の姉(鳳鈴)が、金の延べ棒10本で身替わりとして処刑された。母親が報酬を取りに監獄に行ったきり帰ってこない」として、母親の捜索願を出したという。

 銃殺された女性の死体は後頭部から銃弾を打ち込まれ、全く顔が判別できない状態だったという。「男装の麗人」にもかかわらず、髪の毛が非常に長かったことも、替え玉説の根拠とされた。

 未確認だが、芳子の兄の憲立は手記の中で、「金の延べ棒100本をわたせば処刑したことにして助けてやる」と持ちかけられた話を記しているそうだ。

 今回の報道によると、中国人の仲間(というより、粛親王の部下だったらしい)が末期がん患者に金の延べ棒4本を渡して身替わりとなってもらい、彼女を救い出したという。その後は「方おばさん」として、長春で生活していたらしい。詳細はニュースを見ていただくとして、現段階では事実と断定はできない。ただ、話を読む限り、過去のうわさとつじつまは合っている。「方おばさん」の「方」は、芳子の「芳」と同じ読みだ。芳子が自ら命乞いをしたならともかく、仲間が自発的に救出したのなら十分あり得る話だし、処刑されたのが国共内戦が本格化していくドサクサの時期だったことを考えても、信憑性は高い。少なくとも、源義経がモンゴルに渡ったという類の話ではない。

 ちなみに、芳子には本多まつ江という、幼女時代から信頼する家庭教師がいた。まつ江は芳子が死んだとされる78年の9年前まで生きている。もし芳子が生き長らえたとすれば、日本に渡ることは難しいとしても、彼女にだけは連絡をとろうとしたのではないか。派手な言動で世間の注目を浴び続けてきた女性だから、替え玉を使って生き延びたという後ろめたさや、命を狙われる危険があったとしても、生き続けたという何らかの証拠を残している可能性は残る。処刑回避に全力を尽くしたとされる小方八郎のことも含め、今後も調べていきたい。

 それにしても、今回の話が本当だとすれば、芳子はどんな思いで余生を過ごしたのだろうか。激動の20世紀前半を奔放に生きた人間として、共産中国の息苦しい時代をどう生きたのだろうか。初めて「一般人」となったことで、安寧の日々を送れたのだろうか。それとも世間の脚光を浴びた時代に未練を感じつつ、さびしく生きたのだろうか。身替わりとなった末期がん患者のことを含め、逆に知りたいことが増えてしまった。

ブログ・川島芳子.jpg
                    

 報道によると、山口淑子さんは今回のニュースに対し、「信じられない気持ちがある一方で、あり得ない話ではない」と当惑しながらも、「もし証言が本当なら、あーよかった。心が安らぐ思いがする」といったという。全く同感だ。

 このところ、三浦和義の自殺、小室哲哉の逮捕と、時代の象徴となった人物のニュースが相次いでいる。本人に責任があるにせよ、こういった人たちは善玉が悪玉かに関係なく、世間から持ち上げられた分だけ、時代の奔流に押し返され、悲惨な末路をたどることが少なくない。彼らに被害を受けた人にはまことにお気の毒だが、あまり聞きたくないニュースなのも確か。川島芳子はそうではなかったのだと信じたい。


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