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謎の古写真 [歴史]

   何年も気になっている。 

脱走軍兵士.jpg
                    

 戊辰戦争で函館に「脱走」した幕臣たちの写真。

 右端の人物、ひょっとしたらひょっとして…。

 新撰組の土方歳三!?  

 「私のトシさまはこんなに老けてないわよ。キィー!」と熱心な土方ファンの女性からお叱りを頂戴したら、「違うに決まってますよねえ…」とすぐさま前言を翻してしまいそうなほど、自信もなければ確証もない。

 だけども初めて目にした瞬間、その容貌から「もしや…」との思いがふと頭をよぎった。あくまでよぎったというレベルですけど(明らかに老けて見えるが、古写真の保存状態はさまざま。それだけで簡単には切り捨てられない)。

 ともかく、もし仮にそうだと証明されれば世紀の大発見である。そうか、歴史にヲレの名が残るか~。エヘ。

 そこでこの写真について、下心パワーとわずかな手持ちの情報を駆使してアレコレ考えてみる。

 まずは被写体の人物たちだが、彼らが「脱走兵」なのは確実だ。右から2番目の人物は人見勝太郎といって、北海道で「蝦夷共和国」ができたときに松前奉行を務めた人だ。人見の写真は他にも存在し、この写真とソックリなのでこの点について異論はなかろう。  

 中央の人物についても甲賀源吾で間違いない…と思う(詳しくはウィキを)。甲賀は軍艦頭という、海軍で奉行に次ぐ要職にあった人。  

 彼らが蝦夷地へ渡ったのは1968年10月20日。甲賀は軍艦「回天」の船長として翌年3月に行われた「宮古島海戦」に参加し、同月26日に戦死している(いずれも旧暦)。おそらくこの写真はこの5カ月の間に函館で撮影されたのだろう。  

 人見と甲賀が写っているということは、残る3人も幹部級とみてさしつかえないはず。土方の蝦夷共和国での役職は陸軍奉行並で、陸軍奉行の大鳥圭介に次ぐ地位なので、この中に入っていても全く不思議ではない。問題はここからだ。  

土方歳三2.JPG                                                                               

 土方の写真は2枚現存していて、全身写真と、上半身のみのものとがある。両方とも服装が同じで、おそらく同じ日の撮影と推測される。撮影時期や場所が確定しているわけではないようだが、やはり函館で、先に述べた期間内とみてよさそうだ。

 現存写真の土方と集合写真の「土方」(仮にそうしておく)にはいくつか違いがある。ひと目で違いが分かるのは髪。土方は「漆黒の」という形容がふさわしい豊かな髪の持ち主だった。これに対し、「土方」の髪は明らかに薄い…。  

 集合写真では全員がまだ髷を残しているので、剃っていた月代が5カ月の間に伸びた可能性はある。幕末には近藤勇の写真を見ても分かる通り、総髪という、月代を剃らないタイプの髪型が志士の間で流行した。おそらく土方も総髪だったと思われるが、それでも戦争中ということでそうした可能性がないとはいえない。なぜなら月代を剃る習慣はもともと兜をかぶりやすくするために生まれたもので、戦いに臨む土方が「武士道」に則ってそうした可能性も捨てきれないからだ。フ~、何とかセーフ。  

 もっとも、この推論にはさらに不利な材料がある。戊辰戦争終盤の同年9月初旬、仙台城内の応接所で開かれた奥羽列藩の軍議の席で土方を見た二本松藩士安部井磐根は、「色は青い方、 躯体もまた大ならず、漆のような髪を長ごう振り乱してある、ざっと云えバ一個の美男子と申すべき相貌に覚えました」と回顧している。この時点で土方はすでに月代を剃るどころか、髷自体を切っていた可能性すらあるのだ。

 う~ん、土方である可能性はやはり低いといわざるをえないようだ。

 一方、「土方」をもう一度見てみると、ほかにも刀とブーツの長さが違う。ブーツは短すぎ、刀は長すぎる。ブーツは他に持っていたという解釈が成り立つとして、刀を替えることはあり得るのだろうか。土方の刀は「和泉守兼定」で、長さは2尺2寸8分。これはかなり短い部類に入る。「土方」が帯びている刀は明らかにそれよりも長い。

 やっぱ土方説、ないわ。  

 いや、それでも土方である可能性はある! と、自分に言い聞かせてみる。

 現存写真の土方をよく見ると…ん、何か左手がおかしくないか?指先が欠けているように見えるのだが。一方、集合写真は両手が完全に隠れている。これは何を意味するのだろう。単にそう見えるだけなのか…。

 土方は函館にたどり着くまでの間、3カ月ほど会津で傷養生している。ただ負傷したのは足で(註:宇都宮城を巡る戦いにて負傷)、指を切断したとの記録は見たことがない。

 ここら辺は詳しく調べる余地があるのでは(う~ん、ちょっと強引)。  

 参考までに、蝦夷共和国の幹部は以下の通り(ウィキからの抜粋です)。

 総裁 榎本武揚
 副総裁 松平太郎
 海軍奉行 荒井郁之助
 陸軍奉行 大鳥圭介
 陸軍奉行並 土方歳三
 箱館奉行 永井尚志
 箱館奉行並 中島三郎助
 江差奉行 松岡四郎二郎
 江差奉行並 小杉雅之進
 松前奉行 人見勝太郎
 開拓奉行 澤太郎左衛門
 会計奉行 榎本道章(対馬)
 会計奉行 川村録四郎
 軍艦頭 甲賀源吾
 歩兵頭 古屋佐久左衛門
 陸海軍裁判頭取 竹中重固
 陸海軍裁判頭取 今井信郎   

 自分が調べた限り、ここに名を連ねている人物で土方以上に似ていて(あくまで主観だが)右端の人物に該当しそうな人は見あたらなかった。

 以下は共和国の軍事組織(これもウィキ情報)。

●陸軍(陸軍奉行:大鳥圭介、陸軍奉行並:土方歳三)
・第一列士満:第一大隊(瀧川充太郎、4個小隊、伝習士官隊、小彰義隊、神木隊)第二大隊(伊庭八郎、7個小隊、遊撃隊、新選組、彰義隊)

・第二列士満(本田幸七郎):第一大隊(大川正次郎、4個小隊、伝習歩兵隊)、第二大隊(松岡四郎次郎、5個小隊、一聯隊)

・第三列士満:第一大隊(春日左衛門、4個小隊、春日隊)、第二大隊(星恂太郎、4個小隊、額兵隊)

・第四列士満(古屋佐久左衛門):第一大隊(永井蠖伸斎、5個小隊、衝鋒隊)、第二大隊(天野新太郎、5個小隊、衝鋒隊)

砲兵隊:関広右衛門 工兵隊:小管辰之助、吉沢勇四郎 器械方:宮重一之助 病院掛:高松凌雲

●海軍(海軍奉行:荒井郁之助)
開陽(澤太郎左衛門、1868年11月江差沖にて沈没)
回天(甲賀源吾、のち根津勢吉、1869年5月箱館港にて自焼)
第二回天(小笠原賢蔵、1869年3月九戸港にて自焼)
蟠竜(松岡磐吉、1869年5月箱館港にて自焼)
千代田形(森本弘策、1869年4月箱館港にて座礁)
神速(西川真蔵、1868年11月江差沖にて沈没)
輸送船:太江丸、長鯨丸、鳳凰丸、長崎丸、美賀保丸、回春丸 

 この中に該当の人物がいる可能性はある。特に甲賀とおぼしき人物の服装からして海軍ではなく、陸軍がアヤシイ。

 

 これまで多くの幕末関連本を見てきたが、写真に関する誤りは頻繁に見かける。ひどいのになると、幕末ファンの間でもはや笑いのタネと化している「フルベッキ写真」をいまだに取り上げている本すらある。この写真はフルベッキを囲む形で西郷隆盛や坂本龍馬などの有名な志士が勢ぞろいしているとして、ひところかなり話題になった。

 もちろん、素人でも明らかなウソであると即座に見抜けるシロモノなのだが、いまだに詐欺師的な人物によって額縁に入れた複製写真がオークションで高値で販売され、買う人が絶えない。それだけ誤った情報が蔓延し、信じ込んでいる人がいるのだろう。

 ただし、そういった事実を必ずしも一笑に付してしまえないのは、古写真の世界では定説が覆されることがあるからだ。 幕末の有名人が写っているとされる写真には、来歴が不明で研究者を手こずらせるものが少なくない。

 例えば坂本龍馬の妻だったおりょうや、明治天皇の妹である和宮とされている写真。ほとんどの本が断定的に紹介しているが、最近になって間違いとする意見が優勢になりつつある。 

土方歳三.jpg
                   

 現時点で集合写真の人物が土方であるという確証は何ひとつなく、あくまで直感で、チラっとそう思っただけだ。けれども現時点では彼が誰なのか証明されたわけではなく、土方ではないと証明されたわけでもない。少なくとも当方の知る限り。粘ってみる価値はある!  

 ここはぜひ熱心なファンにこそ、この謎を解き明かしてほしい。たとえ結果が「キィー」であろうとも。


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