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メキシコへ渡ったサムライ [歴史]

 経済小説の開拓者として知られる城山三郎氏に、「望郷のとき~侍・イン・メキシコ」という、ちょっと毛色の変わった作品がある。前半は小説風、後半はルポルタージュ風の二部構成で、江戸時代初期にヌエバ・エスパーニャと呼ばれたメキシコへ渡り、現地に根を下ろした日本人の足跡を追い求める内容だ。読んだのがだいぶ昔なのでうろ覚えだが、アカプルコ周辺のある集落でサンダルを「ワラッチ(ワラジか?)」と呼んでいるとの逸話があり、興味をかき立てられたのを覚えている。

 1968年に出版されたこの作品では、日本人の移住を示す具体的な話はほとんど触れられていない。だがその後いくつか新資料が発見され、不完全ながらベールが取り除かれつつある。

 移住者が存在したこと自体は明白となっている。アステカ王国の元首長の子で修道士だった人物が書いた「チマルパインの日記」には、京都出身の商人とされる田中勝介が1610年に派遣された「田中使節団」のうち、3人がメキシコに残留したとある。伊達政宗が送り出し、3年後に日本を出発した「慶長遣欧使節」でも、使節団を率いた支倉常長がマニラから日本の息子に送った手紙で3人がとどまったとつづっている。この時には、ほかに数名が居残ったとみられている。

 日本生まれで現地の名を持つ者も数人が確認されており、「ルイス・デ・ベラスコ」「フアン・アントニオ」「ルイス・デ・エンシオ」「フアン・デ・パエス」などが知られる。大泉光一・青森中央学院大学教授が書いた「メキシコの大地に消えた侍たち」によると、前の2人は田中使節団で残留した3人のうちの誰からしい。2人ともヌエバ・エスパーニャの副王を務めたルイス・デ・ベラスコ侯爵に同行してスペインへ向かい、ベラスコはスペイン艦隊の船で事務長を務めるまで出世したが、その後は貧窮し、1622年5月に召使い1人を伴ってヌエバ・エスパーニャへ帰国した。フアン・アントニオはスペインに10年住んだ後、1624年2月に帰国許可を求め、支度金の支給を認められている。2人ともその後の消息は不明だ。

 一方、ルイス・デ・エンシオとフアン・デ・パエスについてはそれよりも詳しいことが分かっている。ルイス・デ・エンシオはフアン・デ・パエスの舅にあたる。

 1960年代半ば、前出の大泉氏はメキシコ第2の都市グアダラハラのメトロポリタン・カテドラル(大聖堂)に残された死者・埋葬台帳を調査した。その際に発見した文書には、「(1642年5月29日に)日本人アウグスティン・デ・ラ・クルスがグアダラハラのサント・ミゲル病院で亡くなり、遺言執行人に日本人ルイス・デ・エンシオが命じられた」と書かれてあった。同氏はその後、1980年になってグアダラハラの公文書館にある商事関係の契約書から、彼があるスペイン人との間で交わした小売業の共同経営に関する2枚の契約書を発見した。これらの契約書には、ルイス・デ・エンシオ自ら、「福地蔵人・る伊すていん志よ」および「るいす福地蔵人」と署名してあった。

 この契約書の存在は、ほぼ同時期にラテンアメリカ史の権威として知られるフランスのトマス・ガルボ博士も確認している。ただし、元スペイン大使でガルボ博士の研究に協力した林屋永吉氏は「グアダラハラを征服した日本人」(メルバ・ファルク・レジャス、エクトル・パラシオス著)に文章を寄せ、名前は「ソウエモン」あるいは「ヒョーエモン」であると説明している。

 ルイス・デ・エンシオは別の資料から1595年ごろの生まれとされ、1620年ごろに受洗してキリシタンになったとの記録も残っているようだ。移住後は小売業にたずさわり、ペニンスラール(スペイン生まれのスペイン人)やクリオーリョ(植民地生まれのスペイン人)ではないにもかかわらず、経済的成功を収めた。私生活では、スペイン人と原住民との間で生まれたメスティーソの女性と結婚。10人の子をもうけ、娘の一人はさきに触れたフアン・デ・パウロと結婚している。

 彼はどのような方法でメキシコへ渡ったのか。現時点では推測するしかない。

 有力視されているのは、慶長遣欧使節に加わったとする説だ。大泉氏は名字の福地から彼が侍で、奥州で勢威を張った葛西家の家老を務めた福地氏の一族であるとしている。林屋永吉氏も石巻港から60キロの距離にある福地村の出身ではないかと推察している。

 彼が武士か、裕福な家の出であったことは名前からもうかがえる。苗字を持つこと自体が上流階級に属する者の特権であったし、蔵人あるいは「衛門」の名も武士だった可能性を示す証拠になる。

 さらに彼は自分の名を仮名で書く際、「エンシオ」ではなく「インシオ」と記している。東北では「え」を「い」と発音することが多い。慶長遣欧使節の記録に彼らしき名は見あたらないが、この説には確かに信憑性がある。

 もちろん、他の方法が完全に排除されたわけではない。

 前に述べたように、慶長遣欧使節が日本を出発したのが1613年の10月。翌年1月末にアカプルコへ入港した。総勢180人のうち、日本人は140人あまりを占めていた。メキシコからは、支倉常長を含む一部だけが欧州へ向かっている。

 使節に参加した日本人は上陸後ほどなく数十人が受洗したという。欧州へ向かった人々は、支倉を除けばキリシタンだけで構成されていたようだ。とすれば、1620年ごろに受洗したルイス・デ・エンシオはどちらにも入らないことになる。

 ここである疑問が頭をもたげる。ルイス・デ・エンシオはなぜ1614年に到着してから6年も受洗しなかったのか。

 当時のメキシコは人種的にはわりかし寛容な社会が築かれていたが、生活となると話は別で、カトリック信者でなければ難しかった。キリシタンになることを拒絶し続けてきた彼なら支倉常長とともに帰国するか、他の参加者がそうしたように支倉を待たずに帰国するのが自然だ。

 あまり知られていないことだが、このころ日本からメキシコへ渡った使節は他にもある。1617年の初め、フランシスコ会のディエゴ・デ・サンタ・カタリーナ神父らを乗せ、日本から戻ってきた船がメキシコに到着している。カタリーナ神父は日本との国交樹立を目的に派遣され、交渉が不調に終わったために戻ってきたのである。仮にルイス・デ・エンシオが大阪の陣で浪人となり、一行に加わって渡ったとすれば、時間的な無理はなくなる。

 もしかしたら伊達政宗が慶長遣欧使節と同じように、彼をこの船で送り出したのかもしれない。そう解釈すれば、仙台藩士であっても矛盾しない。 

 このほかにも、彼がいったんマニラへ行き、そこから向かった可能性がある。

 1570年にわずか20数名だったマニラの在留邦人は、1595年には早くも1000人に達した。貿易に従事する者もいれば、流刑者もいた。その数は朱印船貿易の開始によってさらに増加。1606年にはマニラ在住の日本人が水夫の殺傷事件を機に暴動を起こしているが、この時には1500人を超えていたといわれる。

 日本人の増加と彼らの横暴ぶりに業を煮やしたスペイン側は、1608年7月に在留邦人の日本送還を命じるが、てんで効き目はなかった。キリシタンの取り締まり強化や大阪の陣による浪人の増加を背景に、1620年には3000人まで膨れあがった。こうした状況を考えれば、マニラ経由で向かった者がいても不思議はない。ルイス・デ・エンシオの義理の息子であるフアン・デ・パエスは大阪出身で1609年ごろの生まれとみられ、マニラを経由した一人である可能性が高いとされる。

 1610年代にはマニラ~メキシコ間を年に1度ガレオン船が往復し、船員として雇われた日本人もいたらしい。移住となると監視もきつく簡単ではなかったろうが、彼も義理の息子と同じルートを辿ったのかもしれない。

 晩年のルイス・デ・エンシオは事業に失敗し、妻の遺産まで食いつぶしている。それでもフアン・デ・バエスが彼以上の成功を収め、面倒を見ることができたので、けして不幸な人生ではなかったと想像される。

 ただ、異国で生き抜くことの難しさに直面し、弱気になることはあったのではないか。もはや帰ることのかなわぬ祖国を想い、人知れず涙する場面もあったろう。彼が亡くなったのは1666年、推定71歳であった。

 ポルトガル人が種子島に来航し、鉄砲をもたらしたとされるのは1543年。江戸幕府がポルトガル船の入港を禁じ、鎖国体制が事実上固まったのは1639年だ。この間100年に満たないが、海を渡り、異国の地に骨を埋めた日本人は相当数いたと思われる。大名の地位を捨ててマニラへ向かった高山右近もその一人だし、遠いところでは南米のペルーに奴隷として連れて行かれた日本人がいたことも分かっている。彼らもまた、望郷の念にかられる瞬間があったにちがいない。 


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