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文明の十字路へ・その1 [旅の記録]

 旅好きで放浪のようなことをしていたというと、「どこが一番良い?」とよく聞かれます。

 でもこの質問、的確に答えるのが本当に難しい。社交辞令で聞いてきただけなら適当に返せば済むけれど、心から参考にしたがっている場合は、こちらとしてもおざなりに答えるわけにはいかない。

 旅好きとはいっても大きな都市をなぞるようにひと通り訪れただけ。訪問国を増やすこと自体が楽しみだった時代こそ過ぎ去ったとはいえ、自分より多くの国を訪れている人はザラにいて、げんに親友の一人は2倍近い国を訪れていたりします。

 生半可な経験しかない自分がエラそうに答えてしまっていいものか。。。

 それにひきかえ、「次はどこに行きたい?」という質問は楽チンです。また行きたい場所か、行き損ねた場所を挙げればいいんですもん。順位づけにしたって、その時々で多少は違えども、いつも同じような結果になりますしね。あとは行ける条件さえ整えばってそれが一番難しいか。う~ん、定年が待ちきれん。このままだとその頃にはくたばってるかもしれんし、何とかならんのか。。。

 そんなもどかしい思いをしていた矢先、まとまった休みがとれる絶好のチャンスが。仕事がほんの少し落ち着き、周囲の理解もあって永年勤続休暇の権利を行使できそうになったのです。

 海外へ行けるのが夏休みぐらいしかなく、しかも連続だと土日を含めても5日程度が限界。これに対し、永年休暇は平日だけで連続5日の休暇取得が可能です。土日と合わせれば9日間も夢じゃない!

 さっそく仕事中にも見せない真剣な顔つきで世界地図を眺めます。

 チベットのラサからカトマンズへ移動しつつエベレストを眺めてくるってのはどう?

 ラダックのレーから中国のヤルカンドにも抜けてみたいなあ。

 今回は山の神が同行するからある程度はゴージャスにしないと。二度目だけどアメリカ西海岸をドライブってのもいいかな。オーストラリアもいいね♪

 とまあ、自分でもあきれるほど次から次へとアイデアがわいてきて、日夜こうした会話が人知れず繰り返されるわけです。そのクセして結論は出ていたりするのですが。

 昔から興味があったのに機会が得られず、行きたくてムズムズしていた場所とは中央アジア。中央アジアと聞いただけで、シルクロード、タメルラン、グレート・ゲーム、マーワラー・アンナフル…と、子供のように胸がワクワクドキドキするキーワードが次から次へと思い浮かぶのです。

 できればカザフスタン、キルギス、タジキスタン、トルクメニスタン、ウズベキスタンの5カ国すべて訪れたい。アフガニスタンもね。でもさすがに9日間じゃ厳しい。でもって泣く泣くウズベキスタン1カ国に絞ることに。

 とはいえ、ウズベキスタンは中央アジアの中心を占め、観光名所や歴史的遺産も他の国より多いので、この国だけでも大いに楽しめそう。大事なのは現地に赴き、現地の空気を吸うこと。旅したいと思ってあれこれ調べるだけでも大いに価値があるとは思いますが、現地に行き、ついでに知識を身につければ一石二鳥です。

 日本からウズベキスタンへ空路で訪れるには、主に以下の4つの方法があります。

 1、ウズベキスタン航空
 2、アエロフロートロシア航空
 3、トルコ航空
 4、アシアナ航空または大韓航空

 この中で1だけが直行便。せっかくならモスクワかイスタンブールを加えたい。でもわずか9日でウズベキスタンと合わせて観光するのは日程的にかなりきつい。しかも旅行会社にあたってみると、トルコ航空便は空席なし。天下のアエロフロートもなぜかこの時期は直行便より値段が高かったり。いつでも行けて、たいして興味もない韓国はパス。健康面や山の神の参加を考慮し、直行便を使うこととします。

 実はウズベキスタン航空、なかなか便利なんです。日系キャリア並みのサービスは望むべくもありませんが、中央アジア最大規模の航空会社で保有機材も多く、安全面では十分に合格点をつけられます。日本からは関空経由の便が週2回飛んでいて、結局は9日間まるまる使えないとはいえ、限られた期間で効率よく回るにはやはり便利です。

 さて、東京の生活でたまった垢を流しに行くとしますか!

 あ、行ったのは昨年の7月です。画像の行方が分からなくなって今さらのアップになった事実はくれぐれも伏せといて下さいませm(_"_)m

ウズベキスタン1.jpg
          

  9時間のフライトを終えてタシュケント国際空港に降り立つと、出迎えたのは予想以上に殺風景な建物でした。しかも、この便の乗客はこのまま他の目的地に飛ぶ人が多く、誰も建物から出る気配がない。いきなり空港のどこから出ればいいのか、そもそも出てもいいのかすら分からないときた。そこら辺、いかにも旧ソ連の国といった感じです。ここはテキトーに動いていたらすんなり出られました。

 ちなみに、物価が経済レベルに比べて高めなのもソ連的。正確な相場は忘れましたが、タクシーの値段は台湾とあまり変わらなかった印象があります(白タクは別)。といっても、たいていの商品は日本より安く、例外はティッシュくらいでしょうか。これはイジョーに高かった。

 タシュケントの人口は200万人以上。中央アジア最大の都市で、唯一の地下鉄もある大都会です。

 タクシーから街を眺めていて意外だったのは、これでもかというくらい街路樹が植えられ、緑が多いこと。ガードレールがなく、道路が広いせいもあるのか、まるで公園の中を走っているように感じます。オアシスに支えられてきた国だから自然保護の意識が高いのかな?

 あるいは計画的な町づくりに異常ともいえるほどの熱意を燃やしていた共産党の発想かもしれません。特にこの町は1966年の地震で壊滅状態になり、近代都市へと変貌を遂げた経緯があります。ここは新市街だし、人工的な印象からしてやっぱこっちかな。独裁に近い国なので誰かさんの見栄もあるのでしょう。

 前に訪れたウランバートル同様、この都市も「ヘソ」が分からない。どうやら宿泊したウズベキスタン・ホテルの前にある中央広場が中心といえそうです。が、周辺を歩いても高級ブティックがチラホラあるぐらいで、繁華街は一向に見あたらない。とにかくだだっ広く、人口密度が低い。

 ちなみにお世話になった旅行会社の話によると、この国を訪れる場合は事前にホテルを決めておかないとNGだとか。バックパッカー時代なら「そんなこたあ知らん!」で済ませる話ですが、今回はアドバイスに従いました。費用はともかく、限られた期間で効率よく回るならこっちの方が断然いいです。苦労を楽しむ旅でもないし。

 はっきり言ってウズベキスタン・ホテルはいまいちでした。大きくて、団体旅行にもよく使われる有名ホテルですが、いかんせん建物が古い。ネットも1階に降りないと使えず、おまけになぜか日本で買っていった電源のアダプターが合いませんでした。これは貸してもらえましたけど。

 あとこの国はレギストラーツィア(滞在登録)が必要で、宿泊の際にはホテルにパスポートを預け、チェックアウト時にスタンプを押してもらう必要があります。これをしないと場合にっては厄介なことになるので注意。と書いておきながら、山の神が見事にもらい忘れ、慌てふためく場面のあった今回の旅でした。

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 夕方に到着し、ざっとシャワーを浴びた後で周辺を散策。う~ん、緑がいっぱいで清潔なので気分は爽快、と言いたいところですが…とにかく暑い。ウズベキスタンの7月は「チッラ」と呼ばれ、30度超えは当たり前。下手すりゃ45度とかになります。この日も35度ぐらいあったでしょうか。日本のようにジメジメはしてないけど、風があまり吹かず、直射日光の下なのでしんどいです。もっとも、それは無理やり連れてきた山の神の機嫌を損ねまいと気遣ったためかも(笑。陽が落ちきってようやく涼しくなりました。 

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 この中央公園、もともとはスターリンの像が建っていました。その後はマルクス。そして今はティムール(タメルラン)です。中世のユーラシア史を語る上で欠かせないこの征服者は、ソ連崩壊後に再出発したこの国のシンボル的存在。といっても、ティムール自身はテュルク化したモンゴル系部族バルラスの出身で、人口の8割を占めるウズベク族の人ではありません。ウズベク族は北方から南下してきてティムール朝を崩壊させた民族なので、敵対する存在ともいえます。

 それなのに持ち上げるのは不自然に思えますが、背景には多様な民族で構成されるこの国を統治する上で、彼の名声を利用する思惑があるようです。さらにいえば、中央アジア全体を征服した彼を前面に押し立て、中央アジアのリーダーであることを誇示したいのではないでしょうか。

 タシュケントはこれから向かうサマルカンドやブハラに比べると見どころは少なめ。第二次大戦でソ連に抑留された日本兵が建設にひと役買ったアリシェル・ナボイ劇場や、アミル・ティムール博物館はありますが、時間がないのでパス。旅の基点に使うだけで我慢です。

 とはいえかつては石国と呼ばれ、玄奘三蔵も通ったことがあり、それなりに歴史はあります。

 19世紀のユーラシア大陸では、不凍港を求めて南下するロシアと、インドを奪われたくない英国による激しいせめぎ合いが繰り広げられました。それがグレート・ゲームです。その中でこの国を含む西トルキスタンはことごとくロシアの手に落ちていくわけですが、タシュケントはその橋頭堡になった町です。

 19世紀の西トルキスタンは「3ハン国」と呼ばれていたコーカンド・ハン国、ブハラ・ハン国(ブハラ・アミール国)、ヒヴァ・ハン国が支配していました。タシュケントはコーカンド・ハン国に属していました。交易の便に恵まれ、豊かな果樹園や牧草地に囲まれた10万都市だったため、ブハラ・ハンのアミール(藩王)は機会を見つけては併合しようと目論み、何度もちょっかいを出していました。そして1865年、両国は再び戦闘を始めます。

 ここで漁夫の利を得ようと進出を開始したのがロシアでした。この年の5月、ロシア軍はタシュケント城を攻めて25倍の敵を駆逐すると、税金を1年間免除するなど寛容をもって市民にのぞみ、たちまちのうちに心をつかんでしまいました。2年後にはトルキスタン総督府が置かれ、コーカサスでの戦いで勇名を馳せたカウフマン将軍が初の総督に任命されます。彼は与えられた任務を見事にこなし、3ハン国は次々とロシアの軍門に下り、中央アジアのロシア化・近代化が急速に進むことになります。

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 最後にタシュケントの車事情を簡単に。裕福とはいえないこの国でもマイカー購入者は増え続けているようです。目立つのは韓国車。特におなじみのマティスはよく見かけました。日本車で多かったのはスズキのスプラッシュ。ハンガリー生産の世界戦略車ですが、もしかしたらインドでも生産しているのかもしれません。そうでなくてもスズキが強いインドの販売網を生かしているのは確かでしょう。
     
 聞くところによると、この国の自動車市場に本格参入したのは韓国メーカーの方が先だったとか。最近は鉄鋼や造船、電機などさまざまな業界で韓国メーカーの躍進が目立ちます。円高ウォン安、あるいは法人税率や電力代の差などを考え合わせると、自動車分野で追いつかれるのも時間の問題という気がします。彼らから見習う点もあると思います。特にこういう、大きいとはいえない市場を軽視しない姿勢を見習ってほしい。この国が重要な市場になる日は意外と近いかもしれませんし、もともと日本メーカーも小さい市場を拾うことで欧米メーカーとの差を縮めたんですしね。
         
 この国はまだまだ発展途上で、外車よりも古い旧ソ連製の車が目立ちます。ぜひ日本メーカーには今のうちに手をつけてほしいものです。
            
 さあ、旅は明日からが本番です。

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