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文明の十字路へ・その2 [旅の記録]

 「話に聞いていた通り、いやそれ以上に美しい」(アレキサンダー大王)

 「東西に長く南北狭し。すこぶる堅固にして居人多し。異邦の宝貨多くこの国に集まる。土地は肥沃で、気候はおだやかで多く善馬を産する。住民の性格は勇気を好み、王様は豪勇。兵馬はよく訓練され、騎士は勇烈にして死をみること帰するがごとし」(玄奘三蔵)

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 翌朝早く起きてサマルカンドに向かいます。

 タシュケント~サマルカンドは約350キロ。飛行機もありますが、値が張る上に本数も少ないので便利とはいえなさそう。実際バス、タクシー、列車のいずれかを使うのが一般的。ここは一度乗ってみたかった特急レギスタン号で向かうことにします。

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 これがタシュケント駅。立派な建物が多い共産圏の駅舎ですが、ここもたいそう立派でした。チケットは日本でとっていたので、前日に赴く必要も、列に並ぶ必要もなし。しかも改札がなくいきなりホームへ。車両もすぐ分かりました。乗りすごしたら事前に立てたスケジュールが台無しになるのでやや不安でしたが楽勝でした。レギスタン号のタイムテーブルはネットでもチェックできます。

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 レギスタン号。中央アジア屈指の豪華列車として有名な割には…。日本の感覚でいるとがっかりすると思います。コンパートメントは片側3人掛けのシートが向かい合っていて、お茶と簡単なサンドイッチが出されます。残念だったのは、窓が汚れていて車窓の景色がよく見えない点。ただし、タシケント~サマルカンドの景色は特筆に値するほど美しくはなく、さして印象に残りませんでした。ありがたかったのは乗降口そばのデッキに灰皿があってタバコが吸えたこと。

 コンパートメントではロシア系と思しき10代の少年少女とご一緒しました。女の子はかわいかったなあ。意外にもアイフォーンを持っていました。おそらくかなり裕福なんでしょう。ソ連崩壊を機にロシア人は減る一方。ただし上流階級に属する人が多めで、彼女たちもそうなのでしょう。

 真夏とはいえ、タンクトップ一枚のきわどい格好をしていたのは驚き。ウズベキスタンはイスラム圏に属します。後ろ指をさされることはないのでしょうか?もっとも彼女たちに限らず、この国では都市部では特に欧米並みに着飾った女性が多く、とてもイスラムには見えません。「なんちゃってイスラム」といわれるのもうなずけます。

 女の子の姿に気後れして、おじさんは写真を撮らせてもらうのを忘れてしまいました。。。

 朝7時に出発し、11時前に到着。ついに憧れの土地に足を踏み入れたかと思うとこみ上げるものがあります。

 サマルカンドは「人が集う場所」という意味で、紀元前2000年から存在しているといわれます。古くは商売上手で知られ、東西交易で重きをなしたソグド人が住み、アレキサンダー大王の遠征時にはかなりてこずらせたことでも知られます。唐とアッバース朝が戦ったタラス河畔の戦いの後、中国以西で初の製紙工場が作られたのはこの地。イスラム教が入ってからも、いわゆるマーワラー・アンナフルの中心地として繁栄し、世界一の都市とさえ言われました。その後はモンゴル軍の来襲で壊滅的な損害を受けたものの、その後に登場したティムールによって再建され、繁栄を取り戻すことになります。 

 現在は人口40万人に満たない小さな町ですが、それはそれでのんびりとしていて好印象。

 ふと見上げると、これでもかというほど澄み切った青空。さすがは「青の都」と呼ばれるだけのことはあります。灼熱の7月は旅にふさわしい季節ではないのでしょうが、この青空を見れただけで大満足です。

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 宿泊先は「マリカ・プライム」。今回の旅でダントツに良かったホテルでした。こじんまりとしてるけど、とにかく清潔でおしゃれ。3年前にできたばかりだそうです。従業員も親切で文句なし!事情あって無理なお願いもしたのですが、イヤな顔ひとつせずとことん付き合ってくれました。しかもホテルの前は緑が豊か。ロケーションも良いので個人旅行者にはかなりおすすめです。

 ホテルを出てまず向かったのは、歩いて5分の場所にあるグル・アミール廟(支配者の墓)。ティムールとその一族をまつった墓所です。

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 この建物がまたすばらしい。青いドーム(円屋根)が色鮮やかで、さすがに中央アジア建築物の最高傑作のひとつとされるだけのことはあります。ちなみにこのドーム、「ひだ」の数が63本あるとか。これは預言者モハメッドの没年が63歳だったことから決められたそうです。

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 これが内部。壁から天井に至るまで、黄金のきらびやかな装飾が施されています。あまりの豪華絢爛さに、2人して口をポカンと開けたまま見入ってしまいました。

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 真ん中にある黒緑色をした棺がティムールのもの。実際にはこの中に遺体はなく、地下3メートルの場所にある墓室に安置されているそうです。

 1941年、ソ連の学術調査で棺が初めて開けられました。ティムールは足を引きずっていたことから「びっこのティムール」と呼ばれていました。よく戦闘中に負傷したためとされますが、どうやら原因となった傷はその時のものではなく、若いころに盗賊をしていた際にできたもののようです。調査結果はというと、やはり渾名の通り右足が短かったとのこと。

 ティムールはチンギス・ハンに次ぐ巨大な版図を手中にした人物ですが、私の中では冷徹なイメージがあるチンギス・ハンと違い、何となく親しみやすい存在。実際にはティムールもけっこう残虐な行為を行っているんですが。
 
 おそらくチンギス・ハンが草一本残らなかったといわれるほど方々を破壊し尽くしたのに対し、行政面でも手腕を発揮して国家の建設にも力を入れたほか、部下に自らの財産を惜しみなく与えた点がそうイメージさせるのでしょう。

 ただしティムール朝の隆盛を語る上で、孫であるウルグ・ベクの貢献を忘れるわけにはいきません。彼は醜い後継者争いが繰り広げられる中で息子に殺されるという悲劇的な最後を遂げた人ですが、学者肌の人だったようで、文化の面で多大な貢献をしました。彼自身も研究にいそしんだという天文台の遺構は今も残されています。ソ連の学術調査では、彼が首を切り落とされて死んだことも裏づけられました。

 グル・アミール廟の次はサマルカンドのシンボル、レギスタン広場へ向かいます。レギスタン号の名前にもなっているこの言葉は「砂の土地」を意味します。昔この辺りは運河で、砂場が多かったためだとか。数百メートル歩くと、壮大なメドレセ(神学校)が前庭を囲んだ有名な景色が左手に見えてきました。

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 これがレギスタン広場。正面からの写真は検索してみてください。観光スポットの中には写真と実際がかけ離れていてがっかりするものが少なくありませんが、写真で見たままの素晴らしい場所でした。抜けるような青空の下で巨大な建造物がそそり立つ姿は圧巻。
       

 レギスタン広場を過ぎると道を左に折れます。10分くらいでしょうか。やがて左手に見えてくるのは、イスラム世界で最大規模とされるビビハニム・モスク。ティムールのインド遠征からの凱旋を称え、妃のビビハニムが作らせたとされるモスクです。

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 この建物にまつわる伝説にはいろいろあり、完成はしたもののティムールの気に入らず、建築家が処刑されたといわれています。あるいは絶世の美女とされたビビ夫人に惚れた建築家が愛を告白し、彼女が頬にキスするのを許したところ跡が残ってしまい、凱旋から帰ってその事実を知り、怒り狂ったティムールは建築家を処刑し、妃をミナレット(尖塔)から投げ落としたといいます。もしくはビビ夫人はその美貌を誰にも見られないよう、ワランジャ(黒いベール)で顔を覆うようになったとも。イスラム女性が顔に黒いベールをかけるようになったのはそれがきっかけだとか。

 グル・アミール廟の修復が完了しているのに対し、このモスクは崩れかけのままで修復も遅々として進んでいない様子。でも崩れかけたドームや壁がかえって悠久の歴史を感じさせてくれます。

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 ビビハニム・モスクの隣にはシャブ・バザールという大きなバザールがあります。サマルカンド独特の硬いナンやザクロを買ってみては。
                                          

 さてシャブ・バザールを過ぎ、大きな通りを越えるとそこにあるのはシャーヒ・ジンダ廟。「生きる王」を意味する墓所で、ティムール朝ゆかりの貴族らが眠っています。

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 傾斜地に、古くは11世紀、新しいものでも15世紀のお墓がずらりと並んでいて、入り口のタイルや内部の装飾には目を見張るものがあります。青の都を象徴する場所です。

 シャーヒ・ジンダ廟の向こうはアフラシャブの丘と呼ばれていて、1220年にモンゴル軍が来襲し、住民の4分の3が殺されるという大殺戮を行うまでここに町がありました。中央の小高い丘に宮殿があり、それを取り囲むように貴族や政府高官の家が並んでいたそうです。周囲は運河で囲まれ、運河の外周に一般の住民が住んでいました。

 それが今やすっかり荒れ果て、往時をしのぶものは何ひとつ残っていません。それでもアレキサンダー大王時代のコインや中国の貨幣が出土することもあったようで、運が良ければ世界一の都市といわれた時代の痕跡を見つけられるかもしれません。丘に隣接した博物館ではソグド人の壁画も見られます。

 ホテルからここまで2キロぐらいでしょうか。一本道を無駄なく歩いてきたとはいえ、ものすごい炎天下だったのでかなり疲れました。さらに歩いて30分ほどの場所にあるウルグ・ベク天文台跡をパスしてしまったのが悔やまれます。

 余談ですが、ウズベキスタンでは普通のミネラルウォーターだけでなく、炭酸水も普通に販売されています。味はというと、銘柄にもよるけど微妙、かな。でもこの暑さを考えると炭酸水の方が体調維持に効果的なのかも。暑さで意識がもうろうとしていたのか、山の神は2回も買い間違えてしまいました。

 それと困ったのが昼食。観光地の割に適当なレストランがない。疲れているので地元料理は避けてピザとか軽めにしたかったけど、ホテルのそばにあるレストランはあまりおいしくなさそう。どうしようかと二人して話しながらタクシーでホテルに戻っていたら、見慣れた「M」の文字が!なんだ、ウズベキスタンにもマクドナルドあるんじゃ~ん!いや~、助かった。

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 (; ・`д・´) ナ、ナンデスト!!

 結局ホテルの近くまで歩いて戻り、おいしくないピザを食べるハメに。ちなみに「マロカンダ」というのはサマルカンドの昔の名前です。知識って本来、苦労しながら身につけていくものなんですよね?


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