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高さ競争の果てには… [歴史]

  大学時代、東京出身の友人に、「上京前はデパートの数や大きさで訪れた街の規模を判別していた」と話し、大笑いされたことがある。田舎では当たり前のようにデパートが最も高く、経済力を象徴する建物だったのだ。自分の事ながら芋っぽい話である。

 上京し、海外を旅するようになってからも、口をあんぐり開けて空を見上げ、高い建物を数える〝お上りさんグセ〟はなかなか直らなかった。対象こそデパートから超高層ビルに変わったが。

 超高層ビルといえば、このところ世界で建設ラッシュが相次いでいる。最も高いビルは台湾の「台北101」で509メートル。建築中のビルとしては、ドバイの「ブルジュ・ドバイ」があり、来年の完成時には818メートルになる。すでに高さは800メートルを超えている。

ブログ・ブルジュ・ドバイ.jpg

                               (ブルジュ・ドバイ。高けえ~)

  だが上には上がいるものだ。同じ中東のクェートでは、2012年に何と1001メートルのビルが完成する予定というから驚く。ドバイでも1050メートルのビルを建てる計画があるという。もはや超・超高層ビルの時代である。中東パワー、おそるべし。

  私がこの目で見た最も高いビルは、世界第2位の「ペトロナスタワー」(クアラルン・プル、452メートル)だが、東京や米国の各都市を見て免疫ができていたのか、高すぎて感覚が麻痺してしまったためか、あまり驚かなかった。1000メートルといえば、その2倍以上。今度はさすがに目を丸くするだろう。

 でも日本に高い建物がなく、想像すらできなかった時代の日本人たちは、私以上に度肝を抜かれたにちがいない。日本人たちとは、岩倉使節団のことだ。

 岩倉具視を正使とする使節団の一行は、1871年に日本を出発。米国を皮切りに、600日あまりで世界をひとめぐりし、新しい国づくりの参考になる施設を各地で見学して回った。

 最初のサンフランシスコでは、5階建てのグランドホテルに宿泊している(建物は現在のチャイナタウンにあった。現存せず)。そしていきなり豪華絢爛な内装や調度品に驚き、水道設備に驚き、昇降する小部屋(エレベーターです)にこれまた驚いている。そんな中で、国家の代表として威厳を保つのは大変だったろう。

 当時、ニューヨークにはすでに80メートル級のビルがあった。彼らはこのビルを見たはずだ。日本では、せいぜい城ぐらいしか高い建物がなかった時代。かなり驚いたであろうことは察しがつく。ただ一行がどういう感想を漏らしたのか、現時点では調べきれていない。分かり次第、ご報告したい。

 さて、本格的な超高層ビルの時代は米国で幕を開けた。岩倉使節団が訪れた約10年後、1880年代のシカゴで建設が本格的にスタートし、すぐさまニューヨークが続いた。年代順に記録を追ってみると、1890年に94メートルだったのが、1905年には186メートル、13年には241メートルと、ハイペースで記録が更新されている(いずれもニューヨーク)。建設ラッシュは30年のクライスラー・ビル(318メートル)と、翌年のエンパイア・ステートビル(381メートル)で、一応のクライマックスを迎える。

 香港などごく一部の例外を除き、20世紀の超高層ビル分野は米国の独壇場だったといっていい。

 一方、最近の他国に目を転じると、やはり中国、特に上海には触れておかねばならないだろう。上海は私が93年に初めて訪れたとき、100メートルを超えるビルが10棟前後しかみられず、現在テレビ塔のある浦東地区は全くのサラ地だった。

 それが6年後に再び訪れてみると、郊外のマンションを含め、大ゲサでなく雨後のたけのこのように増えていた。これには本当に驚いた。現地駐在の日本人から、上海だけで超高層ビルが2000棟あり、日本全国を合わせた数より多いと聞いた憶えがある。

 超高層ビルが一気に増えたのには、それぞれの都市固有の理由がある。シカゴの場合、1871年の大火で街の3分の1以上が焼け、市と市民が一体となって再建を進めた経緯がある。防災に強く、近代的な建物を増やすため、旧帝国ホテルの設計で有名なフランク・ロイド・ライトら、多数の有名建築家が協力した。再開発は成功し、シカゴは全米有数の大都市としての地位を確固たるものにした。

 余談になるが、大火から3カ月後にシカゴを訪れた岩倉使節団は、5000ドルという、当時としては破格の大金を寄付し、発展にひと役買っている。

 シカゴで建設ラッシュが始まる10年ほど前、欧州でナポレオン3世によって行われたパリ大改造では、超高層ビルが建設されることはなかった。エレベーターを設置したり、建物内を含む都市を電化するには、わずかに早すぎたのである。シカゴの大火は300人の死者を出す惨事となったが、高層化には絶好のタイミングだったわけだ。

 一方、ニューヨークでは経済発展を背景にサービスや金融を中心とするビジネスで成功を収めた企業家が中心となって建設を進めた。マンハッタン島という狭い土地を有効活用する必要もあったが、富を誇りたい企業家たちの野心がこうした建設ラッシュを支えていたことは注目される。

 ドバイや上海の建設ラッシュも、経済発展というキーワードを抜きに語れない点ではニューヨークと同じだ。上海はいうまでもないとして、「脱・石油」を掲げ、オイルマネーを中心に外部資金をどんどん取り込み、観光産業などの育成を目指すドバイの発展ぶりは目覚しい。UAEの石油のほとんどをライバルのアブダビが産出していることも、背中を後押ししているようだ。

 まあ、投資を回収できると見込まれたからこそ莫大な建設資金を確保できているわけだから、経済発展と密接に絡んでいるのは当たり前ではある。

 ただし、いいことづくめともいえない。

 ニューヨークのエンパイア・ステートビルは、完成したのが世界恐慌の直後だった。そのため、第2次世界大戦が終了するまで、かなりのフロアが空いたままになってしまった。いわゆるバブルである。似たような現象は上海でもみられる。日の出の勢いだったドバイも、経済の好調を続かせるべく、投資の誘致を必死に行い始めている。シカゴは唯一の例外といえるが、これは予期せぬ災害が前提にあり、タイミングや資金に恵まれたことも大きい。ともかく、高層ビルが一気に増えるということは、それだけ経済的に大きなリスクを抱えることでもあるわけで、成功だけでなく、失敗の象徴になる可能性も十分にあるのだ。

 一般的に、超高層ビルの寿命は半世紀ほどといわれる。クライスラー・ビルやエンパイア・ステートビルは、改修や補強によって延命を図っている状態。ピラミッドと違い、いずれ取り壊される運命にある超高層ビルは観光遺産としての寿命に限りがある。莫大な建設資金、中で働く人の健康への影響、地震に対する耐久力など、マイナス面やリスクは少なくない。テロの危険もしかり。ましてやビル群となると…。

 もちろん、土地や空間を有効活用できるなどの優れた面も多い(国の威信を高めるとの意見は疑問だが)。だが半ば無秩序に増えている東京や上海を含め、はっきりした将来ビジョンを持ち、全体的な都市計画との整合性をきっちり考えている都市は、経験を積んだ米国を除けばほとんどないように思われる。

 建築や都市工学に詳しくない私には、はっきりとした意見はいえない。専門家の間でも、超高層ビル存在の是非については意見が分かれているようだ。もしかすると、真の勝者は高層ビル群を郊外に〝追いやり〟、中心部は高さを厳しく制限して、古い町並みを維持しているパリかもしれない。何せ、長いあいだ世界第一の観光都市と、欧州屈指の経済都市という、2つの強みを維持しているのだから。

 というわけで、昔は超高層ビルが増えるたびに、日本の経済力が高まった気がしてうれしかったのが、今はむしろ逆で、「あ~、また空が見えなくなるな~」などとぶつぶつ言うようになった。摩天楼は英語で「スカイスクレイパー」という。もともとの意味は「空を削る」なのだそうだ。なるほど…。

 そういえば、宮崎市内の海沿いにある唯一の超高層ビル「ホテル・オーシャン45」(154メートル)は、完成後すぐにバブルが崩壊し、まずい行政計画とあいまって、あっという間に経営が行き詰まってしまった。世界に目を向けなくても、足元に立派な失敗例があったじゃないか。今は「シェラトン・グランデ・オーシャン・リゾート」と名を変え、少しずつ再建が進んでいるようだ。成功を祈りたい。 


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