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母子のきずな [歴史]

  このところ、田舎の母と電話で話す機会が増えている。そのほとんどはこちらからかけている。恥を偲んで打ち明けてしまうが、体調が思わしくないと母の声を聴きたくなるのだ。

 上京前は外で遊びまわっているか、家にいても部屋に閉じこもることが多く、話すことはほとんどなかった。わりあい話すようになったのは上京してすぐ、高校時代から体調がだんだん悪くなっていたことを打ち明けて以来のことだ。それまで苦しむ様子を見せたことがなかったので、母はとても驚いていた。余計な心配をさせることになって後悔したが、一方でつまらぬ意地を張らなくて済むようになった。

  それでも、いつも連絡をとっていたわけではなく、よほど体調が悪くない限り、こちらから電話することはなかった。就職はおろかバイトもろくにしていなかった20代の私にとっては、貴重な金を、競馬代や好きな旅行代にあてることの方が大事だった。実家の家計も苦しく、母は電話ではなく手紙を寄こしてきた。

  家にはそれらが何十通とたまっている。だが私は今に至るまで1通も返事を書いていない。封を切っていないものすらある。手紙だと電話以上に泣き言を書き連ねそうだし、体調が悪いときに封を切ると、涙腺が緩んでしまうのが分かり切っていたからだ。心配させるだけさせておいて、必要なときだけ連絡するなんて、まったく身勝手で罪作りなダメ息子というほかない。

  そんな経緯があったので、先日、野口英世に宛てた母シカの手紙を久々に読んだときは、自分のことのように思えてつい涙してしまった。

  手紙は、米国に長期滞在していた英世に帰国を促したものだ。すでにご存知の方も多いと思われる。少し長いが、引用したい。

 (以下引用)

 おまイの。しせ(出世)には。みなたまけました。わたくしもよろこんでをりまする。

 なかた(中田)のかんのんさまに。さまにねん(毎年)よこもり(夜籠り)を。いたしました。

 べん京なぼでも(勉強をいくらしても)。きりかない。いぼし(烏帽子=地名)。ほわ(には)こまりをりますか。おまいか。きたならば、もしわけかてきましよ。

 はるになるト。みなほかいド(北海道)に。いてしまいます。わたしも。こころぼそくありまする。ドカはやく。きてくだされ。

 かねを。もろた。こトたれにもきかせません。それをきかせるトみなのれて(飲まれて)。しまいます。

 はやくきてくたされ。

 はやくきてくたされ

 はやくきてくたされ。

 はやくきてくたされ。

 いしよの(一生の)たのみて。ありまする

 にし(西)さむいてわ。おかみ。ひかし(東)さむいてわおかみ。しております。

 きた(北)さむいてわおかみおります。みなみ(南)たむいてわおかんておりまする。

 ついたちにわしをたち(塩絶ち)をしております。

 い少さま(栄晶様=修験道の僧侶)に。ついたちにわおかんてもろておりまする。

 なにおわすれても。これわすれません。

 さしん(写真)おみるト。(神に)いただいておりまする。

 はやくきてくたされ。いつくるトおせてくたされ。

 これのへんちち(返事を)まちてをりまする。

 ねてもねむられません。

    ブログ・シカの手紙.jpg   

   これほど子に対する母の愛情がストレートに伝わってくる文章はない。子供の頃わずかに習ったという下手くそな字が、かえって読み手の心にしみる。

  聞くところによると、野口英世は日本で最も伝記に書かれてきた人なのだそうだ。私にはシカこそ、それにふさわしく思える。

  野口シカは1853年(嘉永6年)、ちょうどペリーが黒船で来日した年に生まれている。もちろん、会津の僻陬で貧しい農民暮らしをしていた野口家には何の影響もなかった。野口家はシカの曾祖父の代からことごとく男が家を空け、シカが幼少の頃は、父の善之助だけでなく、母ミサまでもが家出していた。

  働き手がいないから、シカが10歳前後の文久年間には12石の割り当て地に対し、1石あまりしか収穫をあげていない。年貢を納めるどころか、借用米で暮らすありさま。「分限改帳」では、最下層の「下々」からさらにランクが落ち、「無位」になっている。圧政に苦しむ農民の中でも、存在しないものとして扱われていたのだ。シカは、祖母のミツが茶店の使い走りなどをして育て、彼女は8歳になると糊口をしのぐため、進んで子守奉公に出た。

  文明開化の新しい波が寄せ初めてからも、貧しい生活は変わらなかった。72年(明治5年)、20歳になったシカは養子に佐代助を迎える。ところが佐代助は大の酒好きで、彼もまた、なかなか帰ってこなかった。貴重な田畑は酒代のカタにとられ、生活はむしろ苦しくなった。  

  利発で辛抱強いシカは、農家の日雇いで3人の子供を支え続けた。29歳からの11年間は、農閑期の冬場に雪の滝沢峠を越えて若松まで荷を運ぶ重労働をこなしている。さらに夜に苗代湖でエビを採り、近くの農家から柿や芋を仕入れては、行商に出ている。

  明治時代、日本は猛スピードで近代化に向かって突き進んだ。西洋から最新の技術や文物が流入し、新しい産業が生まれ、大名顔負けの暮らしをする成功者が出始めた。一方、経済格差は江戸時代よりむしろ広がったといってよく、下層社会の暮らしは厳しいままだった。シカは江戸時代と明治時代の両方の犠牲者だったといっていい。

  一方、息子の英世が伝記の代表的人物になったのは、医学の業績が優れていただけでなく、立身出世が是とされた明治時代にあって、誰もがうらやむ成功者になったからでもある。彼は時代の寵児だった。

  英世は優秀で勤勉な研究者ではあったとはいえ、子供向けの伝記にふさわしい、聖人タイプの人ではない。恩人に用立ててもらった留学費用をすぐに使い果たしてしまったり、婚約者を残したまま米国に渡っておいて現地の女性と結婚したり、学歴を詐称したり…。出世のためにけっこうえげつないこともしている(それはそれで人間臭くて好きだが)。

  シカがほとんど唯一、新時代に進んで対応したことは、まだ義務教育という言葉がない時代に、貧しいながらも英世を学校に通わせたことだ。英世の出世はシカの夢でもあった。日本が海外から奇跡といわれたほど、短期間で近代化に成功したのは、政策が正しかったためだけではない。シカのような人々が支えていた事実を忘れてはならない。

    ブログ・野口英世.png

  帰国を促すシカの手紙を読み、英世は1915年(大正3年)に帰国する。実に15年ぶりのことだった。大歓迎を受けた英世は、各地で講演しつつ、シカを連れ東京や伊勢を旅した。彼の母への親孝行ぶりは、周囲の人々に深い感銘を与えた。

 シカは、「これで思い残すことはねえ」とご満悦だったという。彼女はその3年後に世を去った。65歳だった。

 私の母は3月でちょうど65歳になった。なのに私は出世はおろか、一度も親孝行らしいことをしていない。むしろ、昔以上に迷惑ばかりかけている。せめて手紙を書くことを親孝行の第一歩にしよう‐。手紙を読んで、今はそう考えている。


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