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司馬さんの「落とし穴」 [歴史]

*長文のため、ブラウザの文字サイズを「大」にして読んでください。

 年明け以降、相変わらず遠くに行っていない。せめて近場でいいから外の空気を吸おうと、近所の図書館へ。以前から気になっていた幕末の人物について調べた。

 薩摩の樺山三円(資之)は、一般にこそあまり名を知られていないが、安政の大獄前後の資料にたびたび名が登場する、重要人物である。諸藩の志士と早くから交わり、藤田冬湖に西郷隆盛を紹介したことで知られる。

 しかし、薩摩藩士が同士討ちをした寺田屋事件のあたりから、名前がみられなくなる。生没年だけでもいいから知りたいと思ったのだ。

 さっそく図書館で人名辞典を開いてみたが、残念ながら「生没年不詳」。書かれてある内容も、私の知る範囲を出ていなかった。がっかり。何かほかに「戦利品」はないか…

 そう思い、何気なく会津藩のページをめくっていたら、びっくりしてしまった。大場恭平の名があるではないか。しかも、初めて知ることだらけだ。

 大場恭平は、過激攘夷志士を装い志士仲間に食い込んだ、会津藩の隠密=スパイだった。平田系国学の志士らが、京の等持院にあった足利将軍の木像を切り、首を鴨川の河原にさらした文久3年2月(1863年4月)の「足利三代木像梟首事件」では、事件を主導しておきながら、三輪田元綱、師岡正胤ら仲間を裏切ったとされる。このとき自らも信州上田藩預かりとなったが、偽装であったらしく、やがて釈放されている。

 この事件は人が殺されたわけではないものの、それまでの個人相手のテロと違い、明らかに倒幕をアピールしていた点で、歴史的意味は小さくない。幕府側による尊攘志士の取り締まりが厳しくなる端緒を開いた点でも、意味は大きい。

 司馬遼太郎の短編集「幕末」には、「猿ヶ辻の血闘」という短編がある。三条実美と並称された長州派公卿、姉小路公知の暗殺事件(朔平門外の変)について書かれたものだ。

幕末 (文春文庫)

幕末 (文春文庫)

  • 作者: 司馬 遼太郎
  • 出版社/メーカー: 文藝春秋
  • 発売日: 2001/09
  • メディア: 文庫

 暗殺は、文久3年5月(1863年7月)の夜。御所朔平門外の猿ヶ辻での出来事だった。数人の刺客に不意討ちを食らい、太刀持ちに逃げられた姉小路は、素手で果敢に抵抗しつつも手傷を負い、自邸に運ばれてすぐ息を引き取った。路上には刀が遺棄されており、薩摩藩に匿われていた土佐脱藩の那須信吾が「(薩摩脱藩の)田中新兵衛のものだ」と証言(なぜ証言したかは不明。後日取り上げたい)。人斬りとして知られる田中は、取り調べにあたった京都町奉行、永井尚志の不意をついて短刀を腹につき立て、壮絶な死を遂げた。


(姉小路公知が暗殺された猿ヶ辻跡)

 田中は事件当日に下宿で寝ていたと、同宿の仁礼源之丞(後の景範、海軍中将)が証言しており、下手人は今もって分かっていない。一部に田中が刀を盗まれたとする説がある。田中実行犯説のほか、長州派公卿の勢力削減を狙った薩摩藩説、攘夷派だった公知が勝海舟に説得され、開国に傾いたことを怒った長州藩説などが取りざたされ、真相は結局、闇に葬り去られてしまった。

 「猿ヶ辻の血闘」では、仲の良かった大場と田中がふとしたことで決闘となり、大場が酔って思うように動けない田中から刀を奪ったことになっている。大場は、木像梟首事件の残党と姉小路卿を暗殺。刀を現場に置き捨てた。短編の最後はこう結ばれている。

 …大場恭平は、その後行方不明。が、釜師藤兵衛の菩提寺である鳥辺山の蓮正寺にはかれの墓碑と思われるものが、いまも朽ちて残っている。
 文久三年五月二十一日歿、と読めるから、これが大場の墓碑ならば、事件の翌日自害したことになる。
 なんのために自害したか、かれの場合もまた、当時の会津人になってみなければわからない。

 小説での大場は、会津人らしい朴訥で仕事に忠実な人間として描かれている。簡潔で、それでいて「味」がある、見事な表現で締めくくられている。ところが、である。この大場、実はその後も生きていたのだ。

 「三百藩家臣人名辞典」をみると、生年は天保元年(1830年)、没年は明治35年(1902年)とある。木像梟首事件で捕縛された者は、ことごとく維新前に死んでいったが、かろうじて生き残った小室利喜蔵(後の信夫、実業家、1839~1898年)より長生きしている。

 歴史小説の内容を史実として鵜呑みにするのが間違いだということは、分かっている。司馬さんの小説も、架空の人物が登場する「竜馬がゆく」をはじめ、史実と食い違う点がゼロではない。ストーリーのあまりの巧みさに「引っかかって」しまっていた。

 人名辞典によると、上田藩に監禁された大場は赦免後、戊辰戦争に参加。坂本兵弥という彰義隊士が酒色に溺れているのを怒り、一刀のもとに斬り倒したこともあったという。戦後は会津側戦死者の埋葬に尽くし、藩が下北半島に移され斗南藩へ改称されると、他の藩士と同行。廃藩置県後は青森、秋田、函館で官職についた。晩年は室蘭の弟の家に寄食し、妻子のないまま病没した、とある。

 こうしてみると、確かに姉小路暗殺の直後に死んでくれた方が、詩的で小説の題材になりやすい。実際、「幕末」はあらゆる小説の中でも不朽の名作だと思っている。しかし、こうした「期待」を裏切る現実にもまた、歴史の面白さが潜んでいるといえないだろうか。


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