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型破りな人生 [歴史]

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 なぜ歴史が好きなのか。これまで何度となくそんな問いを自分に投げかけてきたが、ようやく理由が分かり始めた。好きな人を探し求めているらしい。

 私は偉人伝に取り上げられる「真っ当な」歴史的人物より、個性的で型破りな人物を好む。善玉か悪玉かはさして気にしない。

 現代人にも沢尻エリカさんや亀田兄弟、朝青龍関など、ワイドショーを賑わす人には、確かに世間一般の興味を引くだけの個性がある。でも彼らは「社会の常識」や「世論」に抗うアンチヒーローとして扱われている部分が大きい。世論を代弁するメディアがあって成立する存在であり、たとえ感情をむき出しにしていても、本人の個性がそのまま投影されているとは思えない。意図的でないにせよ、どこか演出的要素が入っているような気がする。

 逆に、ふてぶてしい態度が嘘だったかのような、彼らのおとなしい謝罪会見にも、「三文芝居」を感じる。謝罪方法までシステム化される時代には、型破りな人物が生まれる余地は、あまりない。

 その点、19世紀後半から20世紀前半は面白い人物がウヨウヨいる。どんな分野の本を読んでいても、必ずといっていいほど興味を引く人物が出てくる。日本に限らず、あらゆる技術が進歩し、新しい技術や芸術が生まれ、人々の生活が一変したことと、無縁ではないはずだ。

 櫛引弓人(くしびき・ゆみんど、1859~1924年)は、そんな時代を生きた人の中でも群を抜いて面白い。青森県五戸町に生まれ、上京して慶応大学で学んだ後、1885年に渡米。「国際的興行師」として活躍した。

 櫛引は、歴史上の人物とはいえないほど知名度が低いが、数々の博覧会に関係し、日本を世界に紹介した人だ。ところが「博覧会キング」の異名を持つ一方、必ずといっていいほど「山師」という言葉が説明につく。私はかえってその点に興味を抱いた。

 彼は、「オッペケペー節」で知られる川上音二郎一座の米国講演をプロモートしたことで知られる。

 1899年に日本の興行師を通じ、米国公演を支援することになった彼は、日本人向け公演の次に行われた米国人向けが不入りになると、資金に窮して興行から手を引く。代わりに光瀬耕作という弁護士を紹介したものの、光瀬が公演で稼いだ2000ドルを持って逃亡。一座は路頭に迷い、異国で飢え死に寸前の状態に陥る。櫛引が光瀬の逃亡に関係した証拠は何もないが、「悪徳興行師」として取り上げる芸能史は多い。

 一方、彼は1896年ごろアトランティックシティーでの日本庭園の造園事業を親友から引き継ぎ、テーマパークといえるほどの規模に拡大。茶店で日本人女性を働かせ、芸者の揚屋風の店も構えた。今で言うメイドカフェみたいなものだ。園内には建具屋や釣竿店、花火屋、弓道の体験コーナーもあり、陶器の製作実演も行ったという。欧米に浸透していたジャポニズムの風潮と、日清戦争で日本への関心が高まっていたことに目をつけたのだろう。

 さらに、1915年にはチャールズ・ナイルズ、翌年にはアート・スミスおよび女性飛行士のカザリン・スチンソンと、有名飛行家を連れ帰日。各地でアクロバット飛行の興行をうった。

 飛行機が珍しい時代。4月8日に青山練兵場で行われたショーには、皇太子(後の昭和天皇)をはじめ皇室関係者が多数臨席し、3万人が集まった。鳴尾での飛行には20万もの人が集まり、大阪では主催者の告知に手違いがあり暴動が発生、飛行機が壊されるアクシデントもあった。スミスは16カ所目となる札幌での飛行で大たい骨を骨折して帰国したものの、翌年も来日している。

 そのほかにも、1897年に日本初の映画上映会を催したり、1915年にサンフランシスコで行われた「パナマ太平洋博覧会」で高さ30メートルの鎌倉大仏を作ったりと、人々の度肝を抜き続けた。

 残されている彼の人物評はさまざまだ。幼馴染によると、「子供の時から大変な法螺吹きで…でっかい計画ばかり考えていた」という。一方、日本人飛行家で、米国で活躍した坂本寿一は、「独自の手腕を発揮し、米国における同胞意識を高らしめた」と評価し、「山師」であることを否定した。


(曲芸飛行を披露したアート・スミス。日本中を熱狂の渦に巻き込み、流行歌にもなった)

 アート・スミスは、日本で稼いだ金で目の不自由な父親に車をプレゼントするなど、親孝行で真面目な若者だったとされる。彼が新聞に「母親がドイツのスパイ」などとありもしないことを書かれ、尾ひれがついて「彼は女装したドイツ人男性のスパイ」と根も葉もない噂が広がると、櫛引は「(彼は)我が武士道の権化」とかばった。ショーをプロモートする立場とはいえ、なかなか言えない言葉だ。

 一方で、母の実家にあたる立五一銀行の支配人にピストルを突きつけ、30万円を強引に借り出すという、犯罪まがいのエピソードも残っている。

 人によって評価が変わるという事実は、個性にあふれていた証拠とみなせるのではないか。少なくとも、判明している彼の事歴を見る限り、国際感覚に富み、何が客にウケるかを心得た、鋭い時代感覚を持った人間だったといえるだろう。
 
 晩年についてはよく分かっていない。あれほど精力的に動き回ったにもかかわらず、ほとんど財をなさなかったようだ。1924年、養女の女流画家、歌川若葉に看取られ鎌倉で死去した。故郷を捨てた彼に正式な墓はなく、交詢社の仲間が葬儀を行い、青山墓地にある友人の墓の一隅に埋葬した、という。

 米国へ戻ったアート・スミスは、エンジン技師のウィリアム・ゴーハムに、日本での航空エンジン製造の可能性を語った。ゴーハムは1918年に30歳で来日。紆余曲折を経て、三輪自動車「クシカー」を試作した。クシカーとはいうまでもなく、櫛引のことである。

 ゴーハムはその後、日本に帰化し、太平洋戦争中も日本を離れなかった。誠実な人柄と技術力が日産自動車を興した鮎川義介らに信頼され、日産の取締役技師長や富士自動車の副社長を歴任。1949年に61歳で死ぬまで、黎明期の自動車工業発展に尽くすことになる。


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