ジェリー藤尾さんのこと [本(ほん)]
他人を理解するのは、難しい。
人には人それぞれのバックグラウンドがある。長年付き合っている相手でも、知らない部分がいっぱいあるはずだ。なのに人はよく「あの人はいい人」などと、そんなに知っているわけでもないのに、他人を単純化してとらえてしまう。
最近読んだある人の自伝は、人を理解することの難しさをあらためて教えてくれた。ジェリー藤尾さんのことだ。
今でこそブラウン管に登場する機会が減ったが、ジェリーさんは「遠くへ行きたい」などのヒット曲を歌い、映画やバラエティー番組でも活躍してきた。私が子供のころは、萩本欽一さんのテレビ番組で冗談を言ったりして、とても気さくに振舞っていた。つねに笑顔を絶やさない人だ。
正直言って、私はこの人にあまりいい印象を持っていなかった。ワイドショーで取り上げられ、バッシングに近い扱いを受けた80年代後半の離婚騒動以前から、子供心に「芸能人とはいえ、軽い感じの人だな」と思っていた。
だが彼の自伝「ともあれ、人生は美しい」(集英社)を読んで、自分の理解が浅かったと分かった。
ジェリーさんは1940年、NHKのアナウンサーだった日本人の父親と、イギリス人の母親の間に上海で生まれた。上海時代は裕福な生活を送っていたようだが、敗戦で帰国した後は、ハーフということでさんざん差別されたらしい。
反発心から、喧嘩に明け暮れる日々。「裏口入学」的に入った高校ではラグビー選手としてならしたが、留年が決まったのを機に退学。新宿・歌舞伎町の有名な愚連隊「三声会」で用心棒を務める。喧嘩はヤクザが恐れるほど強かったという。その後、ジャズ喫茶で歌っていたところをスカウトされ、スターへの階段を駆け上っていくのだが、その経緯はここでは省く。
本書には、彼が実質的な芸能界デビューを飾った「日劇ウエスタンカーニバル」をはじめ、映画やテレビでの裏話やエピソードがふんだんにちりばめられている。愚連隊の歴史を知る上でも、昭和芸能史を知る上でも貴重な一冊だ。
けれども一番印象に残ったのは、母親の死について触れた部分だった。
ジェリーさんは母親と引き揚げ船で帰国したが、まだ子供で環境への適応力があった彼と違い、母親は言葉を覚えられず、孤独を感じていたらしい。父親は地方に赴任していたのか、あるいは夫婦仲に亀裂が入っていたのか、家に帰ってこなかった。母親は寂しさを紛らわすため、キッチンドランカーになる。そしてジェリーさんが中学1年のとき、28歳の若さで死んでしまう。
彼は、おびただしい量の血を吐き、台所で死に絶えた母親の姿を目の当たりにしている。
本書には母親について触れた部分が意外と少なく、その死が彼に与えた影響は完全には読み取れない。ただ、こう語っている。
…それ(母の死と父の不在)が、僕の孤独感、さらには不屈の精神へとつながっていったのではないだろうか。僕がいったん怒ると、手に負えなくなるのは、この母の死がもたらした結果かもしれないね…
自伝を読んだからといって、ジェリーさんのことを分かったつもりになっているわけではない。普段は怖い人なのかもしれない。が、最も大切な存在だった母親の不幸な死と、その死を自身が目撃したという事実を前にして、エンターテイナーに徹してきた彼の姿勢が理解できたような気がした。
救われるのは、離婚後についてきた子供たちに孫ができ、とてもかわいがっていることだ。もう70歳近いが、今後も活躍してほしい。
本書は一般的な自伝と違い、「独白」の体裁をとっている。1時間で読みきるほど面白く読めたのは、聞き書きをした作家、小田豊二さんの力にもよるであろうことを付け加えておきたい。
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