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夏休み企画第2弾・その2 [旅の記録]

 いい旅のスタートを切れた―。前回そう書きましたが、これから触れる話題を考えると、この言葉は適当ではなかったかもしれません。

 ホテルに着くと、休む間もなくタクシーを拾い、ある場所へと向かいました。

 港町で、ハイテク産業が盛んな大連は、上海に負けないくらいモダンで、高層ビルも多いところ。中心部をブラブラ歩くだけでも楽しい街ですが、それよりどうしてもこの目で見ておきたい場所があったのです。行き先は、中山広場から2キロほど離れた幹線道路沿いにある、大連京劇院です。

 ここを訪れた理由を説明するには、多少の時間を要します。

 この建物が京劇の劇場として使われるようになったのは1993年。わりあい最近のことです。1948年からそれまでは、図書館として使われていたようです。そして、さらにその前はお寺でした。このことは、外観を見ればずぐに分かります。

ブログ・東本願寺建物.jpg

       (92年に市の文化財となっています。こうした建物を大切にする姿勢は素晴らしい)

 ここは戦前、浄土真宗の東本願寺だったのです。

 前回述べたように、日露戦争で日本が勝利し、ロシアの租借地を引き継いで以降、大連は大陸の玄関口として機能してきました。

 しかし、第二次世界大戦で日本が負けると、今度は引き揚げ船の出発地になります。

 満州からの引き揚げがいかに大変だったかについては、数多くの本で触れられています。規律のとれていないソ連軍の侵攻や、日本の抑圧や差別的な待遇から解放された中国人の復讐もあり、治安は悪化し、多くの日本人が危険にさらされました。栄養失調や病気による死者も続出しました。昭和22年3月30日から2年半のあいだに大陸から帰国した人は127万人(他地域からの帰国を含む)。使われた帰国船は76隻にすぎす、なるだけ多くの人を収容するため、荷物には限度が設けられました。

 こうした混乱のさなか、東本願寺には亡くなった日本人の遺骨が多数、取り残されました。

 ここからの説明は、産経新聞の将口泰浩記者が2005年4月3日付から3回にわたって執筆した記事によります。

 記事中で、大連の沖電気に勤めていた高橋さんという方が語った話によると、山を削った場所にある東本願寺の裏手には、26カ所の収容所や学校、教会が設けられ、新京(満州国の首都、今の長春)などから流れてきた人でいっぱいになったといいます。高橋さんはこう説明します。「本堂から30メートル離れた東西の岩山には僧侶が逃げ込む防空壕があり、その中にたなをつくり、遺骨や位牌を安置した」と。高橋さんは部下30人とともに、船に持ち込めない遺骨を白いさらしで包み、名前を書き込んだそうです。その数は昭和23年夏までに、数千にのぼりました。高橋さんは最後、荒らされぬよう、入り口に柱を組み、セメントを塗りこみました。

 この事実からすると、どうやら東本願寺の周辺を囲む崖の部分がコンクリートで固められ、その中に遺骨があるようなのです。

 記事によると、これとは別に、東本願寺が昭和21年、独自に埋葬供養した遺骨が眠っていて、それは本堂の地下にあるそうです。遺骨が壁の中という、変わった場所で、今なお眠っているという事実に興味を覚えました。

 はたして今も遺骨はあるのだろうかー。京劇院に到着すると、興奮を抑えつつ、入口に座っていた男性に声をかけ、筆談で質問してみました。

 幸い、質問の趣旨を理解してくれたようで、事実関係に詳しそうな別の男性を呼んできてくれました。が、筆談ではどうにも相手の言う意味が理解できません。役者の卵とみられる若い人が何人か集まってきましたが、あいにく英語を解する人がいない様子。先方はしつこく食い下がる私に粘り強く付き合ってくれましたが、結局ダメでした。

 その際、建物内を少しだけのぞかせてもらいましたが、筆談で「地下室没有(メイヨー)」、つまり「地下室はない」といっているので、おそらく地下室は存在しないか、彼らが存在を知らないのでしょう。

ブログ・東本願寺・後ろの壁.jpg

       (建物背後の右側にある壁。コンクリートとはいえないようですが…) 

 壁についても残念ながらよく分かりませんでした。前に述べたように、東本願寺の周辺は幹線道路に面した部分をのぞき、三方が崖を背負っています。向かって左側から背後にかけては、細い道路が崖をのぼるようにして通っていて、右側には別の建物があります。壁らしきものといえば、建物背後の右側あたりにあるくらい。でも新しいようでもあり、古いようでもあり…結局、確信には至りませんでした。周辺も住宅地になっていて、収容所の名残りは感じられませんでした。男性が書いた文章を翻訳していないので、まだ収穫があるかもしれませんが。

東本願寺・右の壁.jpg 

       (建物右側の壁。新しい感じです。上にはアパートが建っていました) 

 中国政府は、大陸に残された日本人の遺骨収集を行っていません。なので東本願寺にまだ眠っている可能性は大いにあります。すでになくなっているとしても、遺棄されたのではなく、記事掲載後に日本人遺族が持ち帰った可能性の方が高いと思います。

 男性に礼を言ってからも、なかなか東本願寺から離れられませんでした。日本の東本願寺と全く変わらない建物から京劇のセリフが聞こえてくるのが不思議な感じがして、金縛りにあったように惹きつけられていたのです。そんな場所で今も眠っているであろう日本人の遺骨。収穫はありませんでしたが、彼らの近くで手を合わせることができただけでもよかったというべきかもしれません。


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