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夏休み企画第2弾・その1 [旅の記録]

 ようやく辿り着いた今年の夏休み。珍しく連続休暇がとれたので―といっても土日を合わせて5泊6日ですが―海外へ行くことに。

 山の神は仕事。「なんだ、ひとり旅か~残念だな~」などといいつつ、顔はにやけていたりします。

 行き先は中国にしました。5回目くらいでしょうか。本当はまだ行ったことのないエジプトとトルコに行きたかったんです。エジプト航空とトルコ航空が今年からスターアライアンスに加盟したので、全日空のマイルで行こうと思っていたんですが、調べてみるとトルコ航空は便がなく、エジプト航空だと往復で6万マイルが必要。中国なら全日空の路線が充実していて、2万マイルで往復できるということで、妥協成立。

 大連イン、瀋陽アウトにしました。妥協といいつつ、訪れた国の数が増えないだけのことで、むしろ中国、特に旧満州と呼ばれる東北部は私にとって特別な土地。初めて訪れた国という思い入れに、近代史好きが加わり、満州と聞いただけでワクワクするのです。

 そんなわけで、夏休み企画第2弾として、歴史を中心に、中国でのあれこれをレポートしていきたいと思います。なるだけ参考になるような情報を載せるつもりですので、「自分が楽しんできただけやんけ!」というツッコミはなしで(笑。

 さて、出発は21日。時あたかも五輪ムードが最高潮を迎えるなかでの訪問です。目的地が北京に近いので、かなりの混雑を予想していたのですが、便の埋まり具合は意外にも3割ほど。お盆で一時帰国した人もあまりいない様子。現地に進出した日系企業を当て込んだビジネス路線なんですね。サーチャージの影響も多少はあるのかもしれません。何せ成田の空港使用料を含めて2万円!外国キャリアだと、マイルをサーチャージに使える会社もあるそうなので、これからマイレージクラブに加入される方は要チェックです。

 それはともかく、行きのフライト時間は2時間。体力に自信のない私にとってこれは本当にありがたい。よく考えてみると、海外といっても大連までの距離は、実家のある宮崎までとそう変わらないんですね。そっか、そんな遠くに住んでたのか…。

ブログ・大連市内.jpg

   (大連駅前から見た大連市内。経済発展がかなり進んでいて、かなりモダンな雰囲気です)

 午前中に出て、昼すぎに到着。タクシーで30分ぐらいかけて街の中心にある中山広場へ向かい、さらに5分ほど歩いて、初日の宿である大連飯店に到着です。

 昔、ちょっとばかり放浪のようなことをしていたので、宿はいつもぶっつけで、自分の足で探します。苦労する分だけ、その国の宿泊事情を把握できますし。でも今回は少しでも無駄な時間を省きたいので、あまり細い条件を設けず、手っ取り早く「地球の歩き方」のお世話になることに。ロケーションで選びました。

 で、チェックインしてみて、あることを思い出しました。「そういえばこの大連飯店、戦前に『遼東ホテル』の名で親しまれたホテルじゃなかったっけ」。

ブログ・大連飯店.jpg

  (大連飯店の部屋。日露戦争中の開業で、伊藤博文も宿泊したことがあるそう。中国はシングルもツインも基本的に同じ値段。やや古いものの、355元(1元=約16円)とリーズナブルでした)

 フロントに聞いてみると、やっぱりそうでした。戦前の日本人にとって、大連は大陸の玄関口。遼東ホテルにも大陸でひと旗上げるべく、多くの大陸浪人や商売人らが逗留していたんです。

ブログ・大連飯店外観.jpg

        (大連飯店の外観は昔とあまり変わっていないようです)

 政治家の中野正剛も、宿泊客となった一人でした。中野は1886年生まれ。朝日新聞記者を経て衆議院議員になった人で、右翼とされる一方、田中義一内閣に張作霖爆殺事件の責任を迫ったり、晩年に東条英機と激しく対立するあたり、人間的には一種の硬骨漢、あるいは堅物といえます。

 まだ一介の書生だったころ、彼は中国人の友人とこのホテルに宿泊し、さっそく漢学者の金子雪斎という人物を訪ねました。

 金子雪斎は、大陸浪人のはしりといってもいい国粋主義者・アジア主義者で、豪放磊落という言葉がピッタリな人でした。日露戦争に通訳官として従軍した際には、通訳ながら昼は前線に出て兵を叱咤し、夜は講義をして兵士たちから崇拝されたほど、魅力があった人のようです。将軍を怒鳴りつけたといった、破天荒な性格をうかがわせる逸話も数多く残しています。戦後は大連に居を構え、私塾を開いて教育に力を尽くし、後の大陸浪人のほとんどに影響を与えたといいます。大陸浪人といっても、強硬な日本の中国政策を新聞紙上で猛烈に批判し、中国人から拍手喝采されるような人物でした。

 さて、そんな金子を訪れた中野は話がひと段落すると、「どこに泊まっているのか」と聞かれます。「遼東ホテルです」と正直に答えると、金子は「書生のくせに贅沢だ!」と一喝。当時の遼東ホテルは、けっこうな高級ホテルだったのです。

 実は、中野は前日まで安宿に泊まっていたのですが、たまたま出会った先輩の計らいで遼東ホテルに泊まっていたのです。向こうっ気の強さでは金子に負けないだけに、弁明もせず、扉を荒々しく閉め、出て行ってしまいました。

 しかし、この出会いがきっかけとなり、中野は金子のことを生涯、尊敬し続けることになります。中野は後年、「私は青年時代から人を人とも思わぬ癖があるが、金子先生だけには覚えず頭がさがった」と述懐しています。

 中野は右翼の大物といわれ、日独伊三国同盟を主張する一方、言論人であり、金子ゆずりのアジア主義者であり、戦争が芯から嫌いという、単純な物差しでははかれない人物でした。その最後も東条英機を批判して逮捕され、釈放された日に壮絶な自刃を遂げるという、謎めいたものでした。大連は、その人生が本格的に幕を開けた場所といっていいかもしれません。同時にそれは、破滅への幕開けでもありました。

 一方の金子雪斎は、日本の中国侵略が本格化する前の大正14年に亡くなっています。大陸浪人と呼ばれた人々も、時代が下るにつれて質が低下し、軍の手先にすぎないような輩が増えていくことになります。彼がもう少し生きていれば、日本の傀儡国家となってしまった満州国のあり方が少しは違っていたかもしれません。

 大連飯店の建物は老朽化し、内装も改装されてごくふつうといった感じです。でもそんな歴史のあるホテルに思いがけず巡り出会えたことで、いいスタートを切れたのではないでしょうか。


タグ:中国 大連
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