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慶長遣欧使節のまぼろし [歴史]

 府中市美術館で開催中の「南蛮の夢、紅毛のまぼろし」を見てきた。江戸時代初期に伊達政宗が支倉常長(六右衛門長経)を代表として派遣した「慶長遣欧使節」に関連した企画展である。

 お膝元の仙台市博物館には、国宝の常長を描いた油絵など、彼が持ち帰った数々の品が収められている。「南蛮の夢、紅毛のまぼろし」は、そうした品こそ少ない一方、使節が後世の美術に与えた影響に着目している点が、ユニークでいい。

 この使節は1613年に日本人140人、外国人40人の陣容で日本を出発し、メキシコ、スペイン、南フランスの一部、イタリアと訪れた。常長は途中、受洗してキリシタンとなり、7年後にルソン(フィリピン)から帰国している。

 常長はローマで貴族に列せられるなど、各地で歓迎され、堂々とした立ち居振る舞いは多くの人を魅了した。だが念願であるスペインとの国交樹立はついに果たせなかった。江戸幕府の消極的な姿勢を見てスペインが貿易促進への情熱を失うなど、使命を果たすには環境が悪すぎた。

 この間、国内情勢は大きく変わってしまっていた。出発前は、貿易重視の観点からキリシタンにまだしも寛容だった徳川家康が存命していたが、帰国してみると秀忠の代になり、徳川幕府最大の障害だった豊臣家は滅び、キリシタンへの風当たりも相当にきつくなっていた。正宗は常長を終始かばったようだが、それでも領地での逼塞を余儀なくされている。長旅で体を壊したのか、わずか3年後に世を去った。

 彼は帰国後もキリスト教を熱心に信仰していたようだ。孫にあたる常頼は18年後、家人の信仰発覚が原因で処刑されている。 

 さらに悲劇的なのは、仙台藩がキリシタン禁制の手前もあり、使節の存在を隠し続けたことだ。ようやく封印が解かれるのは、明治に入り、ベネチアの古文書館を訪問した岩倉使節団が関連資料を〝発見〟してからのことである。

ブログ・支倉常長.jpg

  (支倉常長と描いた国宝の油絵。日本人が描かれた初の油絵でもある。別人説も…) 

 1876年(明治9年)には「宮城県博覧会」が催され、東北地方を行幸した明治天皇が関連資料を天覧している。文明開化の時代になったことを民衆へアピールする目的があったようだ。この時はあまりに現実感がなかったのか、それほどのインパクトは与えなかったらしい。存在が社会的にクローズアップされるのは、1906年(明治39年)に東京の国立博物館で「嘉永以前西洋輸入品及参考展」が開かれたことによる。この時、常長が持ち帰った宗教画や肖像画など9点が展示され、画壇にも大きな影響を与えた。

 当時は日露戦争が終わったばかり。ナショナリズムの風潮が強く、国威発揚につながるような題材を求める傾向があった。続く大正時代は、一転して滅びゆくものにロマンを感じる世の中となり、不幸な歴史をたどったキリシタンに題材を求めた作品が多く登場した。「南蛮の夢、紅毛のまぼろし」では、美人画の最高峰といえる鏑木清方と竹久夢二の作品も展示されているが、こうした経緯を踏まえて作品を眺めると、作風が対照的な2人の作品にも共通性が感じられ、おもしろい。

 ともかく、派遣から300年を経て、常長はようやく報われたことになる。が、めでたしめでたしというにはちと早い。この使節、とにかく謎が多いのだ。

 そもそも派遣の意図がよく分からない。幕府の権威がかなり確立し、外様大名への締め付けが厳しくなる中、幕府の了解を得ていたとはいえ、独自使節の派遣はあまりにリスクが大きい(げんに使節が出発した1613年には疑獄事件の「大久保長安事件」が起こり、政宗は関与を疑われたほか、結果としてキリシタンへの風当たりがますます厳しくなった)。天下取りに執念を燃やす正宗が家康没後をにらみ、何らかの形で倒幕に備えようとしたとしても、何ら不思議ではない。

 2005年には正宗の墓が調査され、副葬品としてロザリオが見つかっている。当時の仙台藩にはキリシタンの武士も相当数おり、正宗がキリスト教の理解者だったのは間違いない。主目的ではないにせよ、父を殺され、また母から殺されそうになって弟を殺すなど、複雑な生涯を送った正宗が、キリスト教にシンパシーを感じ、本気でキリスト教文化に触れようとした可能性もなくはない。

 常長の人生も謎に満ちており、彼を描いた油絵からして別人との見方がある。使節に加わった人々の素性も、やはり詳細は分かっていない。スペインには5~9人の日本人がとどまったとされ、セビーリャに近いコリア・デル・リオの町にハポン姓を持つ人が600人以上いるのはよく知られた話だ。そのほか、メキシコにも日本人がとどまった可能性を示す話がある。このあたりの話はすごくおもしろいので、また別の機会に触れたい。

 常長は19冊に及ぶ日記を書いた。しかし残念ながら、現在は紛失してしまっている。おそらく戊辰戦争か太平洋戦争で焼失したのだろう。わずかに1812年(文化9年)、蘭医の大槻玄沢が目にしたという記録があるものの、内容には触れられていない。

  「南蛮の夢、紅毛のまぼろし」は、切り口もいいが、題名がふるっている。常長らの乗った船は、今なお夢かまぼろしのように、歴史の海を漂い続けているのである。(「南蛮の夢、紅毛のまぼろし」は5月11日まで開催しています)。


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