SSブログ

夏休み企画第2弾・その6 [旅の記録]

 念願かない、ようやく間近に見られた北朝鮮。タイミングの良いことに、北朝鮮国内への情報流入について現地で考え、帰国してみると、今度は流出の度合いをチェックする機会に恵まれているわけで…韓国の新聞サイトを含め、関連報道に目を通す毎日が続いています。
         
 マスメディア、特にテレビのすごさは、独裁者がどんなに姿を隠し、自らの超人性をアピールしたとしても、場合によっては一瞬で仮面をはぎ取り、捏造されたイメージを粉砕してしまえる点にあると思います。金正日なんて、80年代まではかなりベールに包まれていて、怖いイメージだったのに、今やオッサン丸出し。息子にいたっては成田でかくれんぼの子供のように見つかって以来、これが後継者で大丈夫なのかとこっちが心配なぐらい、「そこら辺のちょっと気のいいチンピラのアンチャン」観を醸し出してしまっています。
           
 スターリンやヒトラーといったひと昔前の独裁者たちも、当時のマスメディアがもっと発達していて、宣伝に利用されることがなければ、あれほど権力を手中にし、怖れられる存在にはならなかったでしょう。悪いこともそう簡単にはできなかったはず。
                 
 そう考えると、テリー伊東さんの「お笑い北朝鮮」がいかにすごい本であるか、今さらながら思い知らされます。北朝鮮に対する世間一般の興味をひいた点でも、「恐ろしい国」北朝鮮の本質を全く違った視点からえぐり出した点でも、画期的でした。さらに言えば、政治が人間の産物であることを、あれほど生々しく説明している本はないのではないでしょうか。人間って、ユーモラスで笑える生き物ですから。ヒトラーの独裁を皮肉ったチャップリンの映画に通じるものを感じます。
                
 とりとめのない話はこれくらいにして、3日目の続きです。国境を見た後、瀋陽に向かうバスに乗り込みました。初めは丹東のホテルで一泊し、北朝鮮側の夜景を楽しむつもりでした(楽しむといってもどれだけ暗いのかを確認したかっただけですが)。でも残り2日間しかなく、まだ行ったことのないハルピンを訪れたかったので、やめることに。
                
 瀋陽まではバスで3時間ほど。疲れて熟睡してしまったため、残念ながら日露戦争の舞台になった沿道の地形は全く確認できずに終わってしまいました。帰国してから地図を確認すると、周辺は山がちで、起伏に富んでいる様子。おそらくインドや伊豆半島がそうであるように、遼東半島が大陸にぶつかって土地が押し上げられたのでしょう。やっぱ翌朝に出発した方がよかったな~。丹東は大きい街なので、当日にホテルを探したとしても十分、見つかったはずです。
                
 瀋陽は以前、奉天と呼ばれた遼寧省の省都。北京、上海、天津、重慶に次ぐ大きな都市です。周辺に鉄鋼の街、鞍山や炭鉱で有名な撫順があり、重工業が盛ん。90年代の改革開放で取り残され、経済が停滞した時期もありましたが、ここにきて金融や観光などのサービス産業にも力を入れています。ほぼ同じ規模の大連に比べると、発展の遅れを感じる一方、街全体が工事現場といった感じで、砂ぼこりが目立ちます。
             
 この街は歴史好きの私からみると、それほど魅力的な街とはいえません。前に一度訪れていることもあり、残り2日のうち1日はハルピン観光に割こうと思っていました。
             
 ひとまず、瀋陽北駅前のホテルにチェックイン。夜中に起き、ハルピン行きの特急列車を確認するため瀋陽北駅へ向かいました。中国では列車の系統がいくつかあり、そのうち「T26」など、Tで始まるのが最新の高速鉄道。東北部の高速鉄道はフランスの技術を採用しているようですが、他の地域には日立製作所などの日本メーカーが関わっている路線もあり、各地で導入が進んでいます。
                 
 瀋陽-ハルピン間はバスで6時間、高速鉄道以外の列車だと7~8時間はかかるので、日帰りはほぼ不可能。一方、高速鉄道なら4時間で行けるので、何とか日帰りできそう。時刻表をチェックすると、本数は少ないものの、午前3時47分発に乗り、午後3時ごろの便で向こうを出発すれば8時ごろに戻れるようです。が、窓口に訪ねるとあっさりひと言、「没有(メイヨー)」。ちっ、またかよ~。数年ぐらいすればかなり本数が充実するようなので、次回のお楽しみということで断念。ハルピンと瀋陽の中間にある長春も見たことがあるので行くのを止め、瀋陽市内をゆっくり見物することにしました。
                    
 歴史好きにとってあまり魅力はないといっても、それは長春などと比べた街並みを指してのことで、瀋陽には清を建国したヌルハチや、その跡継ぎで領土を拡大したホンタイジの墓があるほか、瀋陽故宮と呼ばれる王宮、柳条湖事件が起きた場所にある九・一八歴史博物館があります。吉田茂が駐在した旧日本領事館もあり、今はホテルとして使われています。
       
 中でもぜひ訪れたかったのが、市内にある張氏帥府。馬賊上がりの軍閥、張作霖とその息子、学良の邸宅です。
                  
 入り口前の広場には、立派な学良の像があります。第二次国共合作の立役者だけに、国民党の人物とはいえ、中国ではかなり高く評価されているんですよね。意外なことに、共産主義を毛嫌いし、ネガティブな評価をされている父親の展示もそれほど遜色ない内容でした。学良や、共産党に入党した弟たちに免じて…というところでしょうか。
      
張氏帥府1.JPG 
  (中国の伝建建築の中にいると、時がとまったかのように感じます)
               
 中に入ると、まず口の字形をした中国風の建物が2つ続きます。うち1つは接客用、もうひとつには作霖の2番目の妻が住んでいました。
         
張氏帥府.JPG
   (第5夫人の住居。西洋風なのは後に建てられたためでしょうか) 
                
 中国風の建物を右側後方に抜けると、今度は西洋風の建物が姿を見せます。ここは作霖の5番目の妻と娘が起居した所。作霖には6人の妻がいました。学良は若くして亡くなった最初の妻の子にあたります。
                
  1928年の爆殺事件で瀕死の重傷を負った作霖が担ぎこまれたのがココ。到着したとき、第5夫人は「何しているの!さっさと車から下りなさい」と叫んだそうです。誰に呼びかけた言葉か分からず、真意は不明ですが、当時はこの女性が寵愛され、力を持っていたのていたのでしょうか。
              
 張作霖爆殺事件は、時代背景をきちんと押さえていないと、なぜ殺されたのかが今ひとつ分かりにくい事件です。現在では日本陸軍の河本大作大佐らが首謀者とほぼ断定されていますが、作霖と日本がそれまで協力関係にあり、彼が親日的だったため(少なくとも表向きは)、いまだにソ連陰謀説や共産党暗殺説を信じる人もいるようです。ただ、それはあくまで少数派で、関係者の証言などから、河本らによる犯行であることは間違いないといってさしつかえないでしょう。
                              
 作霖は日露戦争から辛亥革命、軍閥間の勢力争いへと至る混乱の中で頭角を現し、日本軍の協力も得て、1919年頃にはほぼ満州全域を支配下におさめます。その後、軍閥同士の抗争に勝利し、26年12月に北京で大元帥を名乗った頃が絶頂期でした。
                 
 しかし、28年4月に蒋介石の北伐が再開されると追い詰められ、2カ月後に再起を期していったん奉天(瀋陽)へ退く決断をします。暗殺はそのタイミングで起こったわけです。 
                  
 背景には、米英寄りの態度をとり始めた作霖に対し、関東軍が危機感を抱いたことがあるとされています。追い込まれた彼が国民党に帰順するのを防ぐ意味合いもあったのでしょう。ここらへんは歴史家ではない私に断定的なことはいえません。ただ、爆殺直前の米英は、日本側の見通しとは逆に、作霖を見限っていたようです。両者が一時期接近したことがあったのは、国民党へのソ連の影響力が強いのを米英が警戒したためで、彼らの本命はあくまで蒋介石でした。
                      
 当時、関東軍は満州の権益拡大を目論み、北伐の成功を恐れていました。河本ら関東軍の強硬派は、駆け引き上手でロボットになりにくい作霖を盾として使い続けるより、彼を消して、より直接的な支配に乗り出した方がプラスになると考えたようです。
                
 事件が複雑に見える背景には、当時の田中義一首相や陸軍首脳が、暗殺を支持していなかったこともあります。事件後の日本の強硬策は、関東軍と、それを日本から支援した外務次官の森恪らによるもので、依然として張親子に肩入れする軍人や政治家が多かったことに留意しておく必要があるでしょう。爆殺事件は出先機関にすぎなかった関東軍による初の暴走として、単なる暗殺にとどまらない、大きな歴史的意義を持っているといえます。
                   
張氏帥府3.JPG
    (大青楼。立派な建物ですが、意外と小さい印象)
            
 張氏帥府に戻ります。第5夫人の住居をさらに裏手へ進むと、張親子が執務をとった西洋風の「大青楼」があります。張氏帥府の大きさは約1・6キロ四方で、中心となるこの大青楼は3階建て。満州の帝王と呼ばれ、アヘン取引も手がけたとされる男の邸宅としては、小ぶりな印象を受けました。この邸宅がひと通り完成した1910年代終わりの奉天は、まだ発展しておらず、財力はあったとしても、上海のように大きな洋館を建てる力はなかったのでしょう。
             
張氏帥府4.JPG
     (やっぱ馬賊出身の作霖に車は似合わない)
                     
 建物前には、20年代に購入されたフォード製の車が置かれていました。看板の説明によると、奉天で登録された最初の自動車だそうです。中をのぞくと、後部座席は2人がやっと座れる狭さ。馬賊上がりの作霖は、乗り慣れた馬を好み、車が嫌いだったとか。この狭さを考えるとその気持ちが分かります。
               
張氏帥府5.JPG
         (作霖の執務室。中国風です)
                  
 父親の執務室は1階、息子のそれは2階にあります。学良の部屋が2階にあるということだけで、作霖が息子をいかに可愛がっていたかが分かりますよね。
                    
 作霖は隣の寝室で日本の女性らを侍らせ、アヘンをたしなむこともあったといいます。首相官邸を思わせる西洋風の建物を構えながらも、馬賊の親分らしい、前時代的な生活を続けていたあたりに、時代のカオスを感じます。
              
張氏帥府8.JPG
       (学良の執務室は12畳ぐらいでしょうか)
 
 こちらは2階にある学良の執務室。部屋がやや大きいのも、学良を後継者としてアピールしたいという、父の配慮が反映されているのでしょうか。ちなみに2人のベッドは170センチの人間が体を伸ばして寝られるかどうかという小ささ。豪華なイメージとは程遠い印象でした。
            
 学良は父を失った後も、すぐには日本と対決せず、事件をきっかけに版図の拡大を狙った関東軍をいなして正面衝突を避け、半年後の12月29日になって中華民国の国旗である青天白日旗をいっせいに掲げます(易幟)。翌年1月には父親の側近だった楊宇霆を暗殺し、完全に権力を掌握しました。馬賊上がりで日本軍と強いコネクションがあった楊は、近代教育を受け、日本人を嫌った学良とは何かと対立していました。
               
張氏帥府7.JPG
  (楊宇霆が暗殺されたとされる会議室「老虎庁」。虎の剥製が怖い…)
                         
 楊は、他の幹部たちとこの部屋に集まった際に殺されました。同行した満州交通副主任の常陰槐も同時に始末されました。軍人なのに人を殺すのが嫌いで、周囲からは優柔不断なお坊ちゃんとみられていた学良だけに、思い悩んだ末の行動だったようです。ちなみに楊の死体は毛布にくるまれ、家族に返されました。敵対者を殺したとはいえ、彼の人柄を感じさせます。
            
 日本に反旗を翻した学良はその後、蒋介石の傘下に入り、37年には有名な西安事件を起こします。彼が親分の蒋介石を監禁した後、仲間の楊虎城や共産党から西安に派遣された周恩来とともに説得し、第二次国共合作を成立させたことは、日中戦争の行方に大きな影響を与えました。
              
 事件後、彼は〝自首〟をすべく自ら首都の南京へと赴きました。これも彼の正義感の強さを示す行動といえるでしょう。それから50年も軟禁状態に置かれたのはご存じの通り。軟禁中はある程度の自由は認められていたようで、〝同罪〟の楊虎城が家族とともに虐殺されたのと違い、生かされただけでも運が良かったといえるかもしれません。蒋としては、小僧と蔑んでいた相手にプライドをズタズタにされたことを怒る一方、北伐完了の功労者でもある彼を生かしておくことで度量の広さを示し、また自らを納得させたかったのかもしれません。人望のあった学良を殺すことによるマイナス面も当然、考慮したでしょう。 
             
 20世紀前半を生きた他の歴史的人物たちと同じように、張親子も毀誉褒貶半ばする存在。特に息子は、後世に大きな影響を与えた割に、蒋介石らに比べると知名度が低すぎる印象があります。
                 
 ただ、父親がその死によって軍閥時代を終わらせたことと、息子が中国統一を願い、一時的にせよ国民党と共産党を和解させ、国を本格的な日本との対決へと導いたことは、もっと積極的に評価されていいように思います。学良が一時期ファシズムに傾倒したことをマイナスに評価する人もいますが、これは混沌とした状況の中で、中国統一を成し遂げるのに権力の集中が必要と考えたためで、彼の統一への思いの強さを表すエピソードとみた方がいいでしょう。
             
張氏帥府9.JPG
    (学良が軟禁中に愛用したとされる帽子。かわいい…)
                   
 張学良といえば、1990年にNHKが行ったインタビューを記憶されている方も多いかと思います。西安事件についての詳細な説明を避けるなど、内容についてはすべてを余すところなく語ったとは言えない面もあります。が、私はずいぶん率直に語っているなという印象を受けました。同じ2世でも、金正日と違ってアクの強さがなく、聡明で素直な人柄を感じました。
     
 張氏帥府の大青楼には現在、彼が愛用していた品々が展示されています。アイロン、パジャマ、洗面器、ひげ剃り…ミッキーマウスの野球帽まであります。これも彼の飾りっけのない人柄を示すとともに、死後も中国統一を願う気持ちを表しているのではないでしょうか。
                  
 彼は2001年10月にハワイで亡くなりました。雰囲気が似ているといわれた昭和天皇と同じ年の生まれで、ちょうど100歳ということになります。同時代人で彼より長生きしたのは、2年後の03年に105歳で亡くなった蒋介石の妻、宋美齢ぐらいでしょうか。長く軟禁状態にあったのに、誰よりも長生きしたのだから、皮肉なものです。
             
 彼が死んだ時、世間的にはたいして話題にはなりませんでしたが、「波乱続きだった近代中国の歴史がようやく幕を下ろしたんだな~」と感慨にふけったのを憶えています。せっかく長生きできたんだから、北京五輪を見せてあげたかったですね。
             
*張学良の人生を振り返るなら、NHKのインタビューをまとめた「張学良の昭和史最後の証言」(角川文庫)と、「張学良‐忘れられた貴公子」(中公文庫)が入手しやすくおすすめです。

nice!(0)  コメント(0)  トラックバック(0) 

nice! 0

コメント 0

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

Facebook コメント

トラックバック 0

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。