夏休み企画第2弾・その4 [旅の記録]
ようやく2日目です(笑。
前日かなり歩いたので、午前中はゆっくりすることにしました。その前にチェックアウト。宿を変更したかったのです。
次の宿は中山広場に面した大連賓館。歴史ファンなら旧ヤマトホテルといえばお分かりでしょう。満鉄(南満州鉄道)経営の高級ホテルで、満州各地にあったヤマトホテルの旗艦ホテル的存在。この建物は1914年に4年の歳月をかけて竣工しました。
(大連賓館の外観。すすけた感じがいいですね)
3つ星でサービスも行き届いているのに、値段は500元以下(シングル。450元ぐらいだったでしょうか)。たったそれだけで甘粕正彦や川島芳子といった、ミステリアスな人物が暗躍した時代にタイムトリップできるのだから、3倍はする欧米系ホテルよりよっぽどマシです。
さて、そんな大連賓館でしばし昼寝をした後、フロントに相談。ここから45キロほど離れた旅順に行きたかったのです。
旅順といえば、203高地があることで有名。一般開放されたのは1990年からで、今でも軍港として使われているので完全には開放されていません。日本人は大半がツアーに参加しているようです。何の準備もせずに来ちまった。どうやって行こうか…。
とりあえず現地の旅行会社に行って聞いてみると、「ツアーは随時行っているのでいつでもOKです」とのこと。ただし、ワゴン車1台をチャーターした場合、客が何人乗っていても1人800元。ちと高い…。もともと束縛の多いツアーは大嫌いときているので、早々と断念。タクシーも、203高地付近で拾いにくいことを考えやめました。せっかくここまで来たのに…。
ところが、ダメもとでフロントに相談したのが大正解でした。何と「400元でご案内します」とのこと。しかも客はひとりだけ!で、誰が連れて行ってくれんの?
再度聞くと、フロントの女性は後ろで座っていたヒマそうなおじさんを指し、「彼がドライバーです。出発はいつでもOKですよ」というじゃないですか!こうして運良く旅順行きが決定しました。(ロシア軍陣地として知られる東鶏冠山の保塁や、大谷探検隊が持ち帰ったチベットの仏宝がある旅順博物館に行く場合は正式なツアーに参加する必要があります)
午後1時に出発。まずは旅順の北西に位置する203高地を目指します。道中は快適で、1時間もしないうちに到着しました。
ふもとのゲートで入場料を支払った後、頂上近くに到着。観光客はやはり日本人が多いそうです。ただこの時は数人のロシア人グループがいるくらい。さっそく売店のおばさんが寄ってきて、「日本語を話せるおじいさんがいるから話を聞いていけ」と熱心に誘ってきます。おみやげを買わせたいんでしょ。バレバレだぞ!でも今回はあまりケチらないことにしていたので、後で写真集を買ってやることにして話をうかがうことに。
おじいさんは1924年生まれの84歳で、この近くの出身とか。日本の統治下で教育を受けたため、日本語がかなり達者でした。大抵のことは「坂の上の雲」などで知っていたことでした。ただ教師をしていた父君が戦争を避けるため疎開したこと、共産中国になってから自分たちで付近一帯を植林したこと、現在は政府所有となっていることなど、知らない情報もいくつかありました。ちなみにおみやげは現地の物価を考えるととんでもなく高いので、無理して買う必要はありません。
話を聞き終えると、100メートルほど坂を上り頂上へ。203メートルしかない小さな山とはいえ、先がとがっていて、頂上付近はけっこうな勾配。体力不足で息が切れてしまいました。汗をぬぐいながら頂上までたどり着くと、記念の塔と、大砲のある展望台が。展望台からは、アトピーの影響で目が悪い今の私でも新市街がはっきり見えました。
(旅順湾。港口を塞いでいる右の岬が老虎尾岬、左が黄金山。広瀬武夫中佐が戦死した閉塞作戦はその間に汽船を沈めようという、危険きわまりないものでした)
旅順要塞攻略の詳細は司馬さんの小説を読んでいただくとして、港に停泊する軍艦を全滅させるか、港から追い出すことが攻略の命題とされたなか、203高地がいかに戦略的に重要な場所だったかが、この景色を見ただけで分かるかと思います。占領直後、山越しに軍艦を狙う28センチ砲の照準を誘導するため、観測隊がここに上ってきました。港が見えるのを確認した瞬間の感動ぶりが目に浮かびます。
残念ながら、樹木が景色をさえぎっており、旅順を囲む地形全体を把握することはできませんでした。港が見えるのを確認するまで203高地が重要な場所であるとは思わなかったという第3軍司令部の説明も、あながち言い訳とはいえないのかもしれません。
(ロシア軍が構築した塹壕。山の斜面がかなり急なのが分かります。近くには乃木将軍の次男、保典が戦死した場所も)
当時の203高地と周辺にはほとんど樹木がなく、頂上から降り注ぐ敵の銃弾から身を守るすべがありませんでした。しかも頂上付近の勾配はかなりきつく、急造とはいえロシア軍が磯いて掘った塹壕が山をぐるりと2重に囲んでいました。日本軍兵士がバタバタと倒れ、屍の山を築いていく様子は、凄惨そのものでした。
19世紀から20世紀前半にかけての近代という時代は、一般市民を巻き込んだ国家間の戦争が歴史上もっとも行われた時代でした。日露戦争は司馬さんが言うように自衛的要素の強い戦争だったと思いますが、なぜ近代に大規模な戦争が集中して行われたのか、そしてなぜ多くの人々が出征し、死んでいったのか、あらためて考え込まざるを得ません。
さて、203高地の次は乃木将軍とステッセル中将が会見した水師営へ。ここでちょっとしたハプニングというか。水師営まですぐのはずなのに、車が遠回りしている様子。どうやらその方が早いようなのです。言葉が通じないので黙って従っていると、いきなり中国の軍艦が視界に入ってきました。旅順の中心部を走っていたのです。
旅順は今も中心市街や軍港付近などへの外国人出入りが制限されているはず。おそらく通るだけならOKということなのでしょう。旧市街はNGかもしれません。
立派なショッピングモールがあり、カップルがのんびりデートしているなど、はたして規制の必要があるのかと首を傾げたほど普通の街といった感じ。軍港の緊張感はまるで感じられませんでした。市内を見るのは難しいとあきらめていたのでうれしい誤算でした。
会見部屋に入ると、テーブルで物書きをしていたお姉さんが私の邪魔にならないよう、慌てた様子で席を立ちました。驚いたことに、お姉さんが使っていたテーブルは、会見で使われた、正真正銘の本物。記念の文章が書かれてあるので、確かにそうと分かります。
(会見に使われたテーブルは今も現役)
たどたどしい日本語で説明してくれたところによると、お姉さんは心理学のような、ちょっと変わった学問を独学で勉強しているのだとか。歴史的な会見に使われたテーブルが、100年後の今なお働き続け、真面目な中国人女性の勉強に使われている‐。他愛のないことながら、感動してしまいました。
旅順には他にも日本統治時代の建造物が多く残っていて、歴史を堪能できる街です。これから大連に行かれる方にはぜひ足をのばし、ゆっくり見ていただきたいと思います。そうすれば街の観光収入が増え、開放もいっそう進むでしょうし。
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