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ある芸者の数奇な運命 [本(ほん)]

  東京に戻って4日たつというのに、まだ頭がボーっとしている。  

  木曜日の最終便で宮崎に着き、ほぼ徹夜で仕事。翌日は午後の予定がキャンセルとなり、友人と焼肉を食べひと息ついたものの、土曜は別の友人の披露宴が行われた熊本へ。行きも帰りも運転は友人まかせとはいえ、2次会が終わった11時ごろにようやく家路につき、さらに翌日正午発の便でとんぼ帰りするハードスケジュール。調子が崩れっぱなしの体にはこたえた。わずかに披露宴会場から復元工事中の熊本城を望んだだけで、田原坂にも夏目漱石旧居にも行けなかった。(披露宴はアットホームでとても感動した。T君、Yさん、本当におめでとう!)。  

  てなわけで、帰京してからもなかなか本を読む気になれなかったが、本棚に置きっぱなしにしていた中公文庫の文庫本「異国遍路 旅芸人始末書」をふと手に取り、思わず目が覚めた。幕末から明治にかけて外国へ渡航したさまざまな人々を取り上げているのだが、独自のエピソードが豊富で、実に面白い。

 ブログ・旅芸人始末書1.png 異国遍路旅芸人始末書 (1978年) (中公文庫)  

  著者の宮岡謙二(1898~1978)は、商船会社の会社員として長く外国で勤務し、退社後は九州別府亀の井ホテルの経営にあたった人。歴史研究で食べていたわけではなく、当人も本書の冒頭で、「いつ、だれが、どこで、なにに重きを置き、その時を幕末から明治のおわりまでに、人とところを海外に足を運んだ日本人に限って、その態容の種々相を探るのを趣味的道楽とする者」としている。

  しかし、その研究内容は仔細をきわめている。本書はかつて私家版として少部数だけ刊行されていたのを、識者から高い評価を得ていたことから発売に至ったという。

  幕末に外国へ渡った日本人といえば、伊藤博文ら「長州ファイブ」のような留学生か、ジョン万次郎のように悪天候で漂流した漁師や商人を思い浮かべる。  

  だが幕末でも明治に近くなると、実は旅芸人の渡航がかなり多くなる。1967年のパリ万博には、複数の旅芸人一座が姿を見せており、その前後には米国や欧州各地でコマ回しや曲芸を披露し、大喝采を得ている。本書はこうした、歴史の片隅に追いやられてしまった事実を丹念に掘り起こしている。  

 ぜひ読んでいただきたいので内容にはあまり触れないが、ひとつだけ、短く紹介されている興味深いエピソードを紹介しておきたい。

  前述のパリ万博には、日本茶屋で茶をたてるため、柳橋の芸者3人が参加し、もの珍しさから大人気になった。どうも一流芸者ではなかったようで、ある日本人留学生の日記では「甚だ醜婦のみ。少しく恥に近し」とこき下ろされている。私はこれが、日本女性による欧米への初渡航だと思っていた。

 確かに欧州を訪れたのは彼女らが初めてなのだが、実はそれ以前に米国へ渡った女性がいた。

  1859年(安政6年)というから、まだ開国まもないころだ。深川の芸者だった小染は、侠客の鈴木藤吉郎にせがみ、上方見物のため神奈川県の浦賀から船に乗った。ところが、船が遠州灘で暴風にさらわれてしまう。60日後にようやくたどり着いたのは、何とハワイだった。漁船にでも助けられたのだろうか。

  彼女の場合は自主的な渡航ではないし、当時のハワイは米国領ではなかったので、正確には欧米への初渡航ではない。また、鎖国前には倭寇の手で海外に売り飛ばされた女性がいたようだから、外国への初渡航ともいえない。

  それでも、江戸の芸者が見も知らぬ異国にたどり着いたことは、漂流からの奇跡的な生還と合わせ、かなり興味を引く。残念ながら本書にはこのエピソードの出所が書かれておらず、事実は詳らかではない。  

  ただし簡単ながら、その後について触れられている。小染はハワイに着いた後、ジャンセーという宣教師に連れられて米国本土へ渡り、熱心なクリスチャンになったという。日本へはとうとう帰らずじまい。1877年(明治10年)ころまで内地に便りが届いていたようだ。藤吉郎がどうなったかは記されていない。

  彼女は渡航後、どんな人生を歩んだのだろうか。子孫はいるのだろうか。当人にとっては、災難としかいいようがなかったのかもしれないし、あるいは意外と悲惨な生活から解き放たれた、幸せな後半生だったのかもしれない。ともかく、当時は外国に渡ることが宇宙旅行に等しいくらい大変だった。フロンティアのほとんどなくなった現代人から見ると、数奇としかいいようのない話だ。


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千壽南都子

ゆくりなくも・・・実家の父の著書をネット上に見つけました。
この原稿を(旧かな、から新かな遣いなどに、修正するための)
清書手伝いを、高校2~3年生の時に手伝った事を懐かしく思い出して
感謝しています。ご評価有り難うございます。
私たちの兄妹は
宮岡萬里 (ばんり)・宮岡千里(せんり) ・宮岡五百里(いおり)・ 
宮岡十里(じゅうり)千壽南都子 (なつこ)・八十田亜都子(あつこ)・
の6人で老いてはいますが健在です。

by 千壽南都子 (2011-04-04 13:08) 

mic

はじめまして。コメントありがとうございます。

宮岡さんの著書を拝読したとき、体を電流が走り抜けたのをよく憶えています。

かつて外国へ渡った名も無き日本人については、ずっと興味を持ちながらも、参考になる資料や本をなかなか見つけ出せずにいました。同じテーマに興味を持っておられた方の存在を知った時の喜びは、旅の疲れを吹き飛ばすのに十分でした。

もし直接お話しする機会があれば、きっと夜を徹して語り 明かしたことだろうと思います。

父君の労作がこれからも世に埋もれることなく、広く読まれ継がれていくことを心より願っております。

by mic (2011-04-08 01:13) 

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