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龍馬暗殺、ではなくて… [歴史]

 *長文のため、ブラウザの文字を「大」にしてください! 


 ブログを始めて4回目の更新。「少しでも読まれる方の役に立ち、楽しめるものを」と考えているものの、始めてみて、大変さをつくづく感じている。

 歴史を中心に、書きたいテーマには事欠かない。とはいえ、ブログで公開するとなると、一定の責任感をともなうわけで…。詳細をある程度、知っているテーマでも、参考文献をさらに集めたりと、満足いくレベルを求めようとして、けっこうな時間を割いている。

 そこで、あまり肩に力を入れず、深堀りする回もあれば、問題提起にとどめる回もあるとふうように、力の入れ具合を変えていきたい。長続きさせるためにも。

 とまあ、早くもいいわけモードになってしまっているわけだが、これは是非、お力添えを得たい疑問があるからでもある。

 疑問は、坂本龍馬の暗殺に絡んでいる。といっても今回書くのは、暗殺そのものではない。龍馬に関連したある人物について詳しく知りたいのだ。暗殺については別途、書く機会があろうかと思う。

 知りたい人物の名は、三浦休太郎。「竜馬がゆく」を読まれた方は、紀州藩が海援隊に多額の賠償金を支払うことになった「いろは丸沈没事件」で、紀州藩代表として交渉にあたった人物であることを、ご存知かと思う。暗殺の約半月後には、三浦を暗殺の首謀者とみた陸奥陽之助(宗光)らが報復を図って「天満屋事件」を起こした。新撰組が護衛していたものの、三浦自身も負傷している。

 三浦は、将軍継嗣問題で家茂を支持して頭角をあらわし、大政奉還の際には公用人として土佐藩の後藤象次郎らとともに藩代表として二条城に詰めた、佐幕派の大物。維新後は戊辰戦争勃発で一時捕縛されたものの、間もなく釈放され、和歌山県の少参事などを務めた後、新政府に出仕。大蔵省官吏、元老院議員、貴族院議員、東京府知事、宮中顧問官などを歴任している。維新後は、名を安と改めている。
    
 龍馬暗殺の首謀者とされ、襲撃された人物が、なぜ要職の東京府知事にまで上り詰めたのか。長らく疑問に思い続けてきた。

 理由を推測するいくつかの材料はある。三浦が紀州藩士となったのは文久2年(1862年)。明治が始まる5年前にすぎない。それ以前は、紀州藩の支藩である西條藩で郡奉行を務めていた。その際、彼は寺田屋事件で囚われの身となった後、脱走した薩摩藩士の美玉三平を匿まった経験を持つ。2人は江戸の昌平黌で知り合った友人同士。三浦はもともと勤王家だったのだ。

 佐幕藩の重役とはいえ、公用人としての仕事を通じ、三浦の勤王思想が知られていたことが、新政府への出仕に影響したのではないか。

 一方、他に紀州藩から新政府へ出仕した人物には、津田出がいる。津田は、紀州藩の藩政改革で実績を挙げて一躍評価が高まり、一時は西郷隆盛をして「津田を首相に」とまで言わしめた人物だ。金にルーズな面が露わになり、やがて西郷の熱は冷めるものの、その後も陸軍少将や元老院議官、貴族院議員を歴任。近代陸軍の整備には特に功があったとされる。

 実は、津田が藩政改革にあたり、郡県制や徴兵制の構想を伝えた相手というのが、天満屋事件で三浦を襲撃した陸奥だった。陸奥は維新後、外国事務局などに務めた後、薩長が政治を牛耳る状況に怒り、「まず紀州藩から改革をしたい」と岩倉具視に願い出て、一時帰藩した。陸奥の父親は、もとは紀州藩の要職にあったものの、お家騒動で失脚。幼い陸奥は脱藩を余儀なくされた経緯がある。確か後年、陸奥が伊藤博文らの暗殺を企て、懲役5年の刑に服した際、妻子を預かったのが津田だったと思う…。
 
 藩政改革の主導権を握った陸奥が、津田や、復活した陸奥の父親らと行った改革は、大きな成果を挙げた。中でも、新政府に先んじて導入した徴兵制(兵士の数が大幅に増えた)と、最先端の装備による近代的な軍隊は、新政府を震撼せしめた。50万石を超える佐幕藩が短期間で強大化したことは、直後の明治4年(1871年)に政府が廃藩置県を行い、中央集権化に踏み切ったことと、全くの無縁ではないはずだ。

 三浦が紀州藩の藩政に復帰するのは1870年(明治3年)で、陸奥と直接まみえる瞬間があったのか、よく分からない。ただ、帰藩してからも要職に就いているところをみると、三浦と陸奥の関係は、この時すでに修復され、龍馬暗殺の誤解は解けていたのかもしれない。

 また、津田や三浦の出仕は、各地の反発を恐れつつ、廃藩置県を断行した新政府が、実力藩の紀州藩を懐柔しようとしたためと考えて、ほぼ間違いないだろう。もちろん、2人が有能だったことも理由なのだろうが。

 いずれにせよ、陸奥との和解、津田、陸奥の父との関係など、管理人にとって三浦の人生には分からないことが多い。暇を見て調べていくつもりだが、現状では三浦の伝記や回顧録が存在しているのかすら知らない(天満屋事件に関する証言はある)。情報をお持ちの方は、教えていただけるとありがたい。

 文政12年(1829年)生まれの三浦は、明治43年(1910年)まで生きた。数え83歳。平均年齢が40歳以下とされた当時としては、かなりの長生きといえる。幕末~明治にかけ、龍馬をはじめ、多くの人間が若くして波乱に満ちた人生を閉じた。が、佐幕派の重要人物でありながら、維新後も栄達し、天寿を全うした三浦の人生もまた、波乱に富んでいたといえる。


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